備忘録89(2019.08.26)

《ここからはじめまして あなたは羅針の鳥 ひたすら胸の中の音を頼りに飛んでいけ》

羅針盤」ではなく「羅針鳥」であることの意味を考える。

羅針盤」が指し示す方角は、一見「絶対的」で「客観的」な「正しさ」を保証しているかのように見える。しかしその羅針盤が「本当にその方角を指しているかどうか」は実のところ分からない。目に見えない「磁場(磁力)」の影響を受ける以上、「狂うことだってある」ことを前提にして針の動きを見なければならない。

羅針盤」=自分の「外」にあるものを行動や思考の基準にする時の危うさが、そこには潜んでいる。それは「客観性」という衣を纏い、「いついかなる時も正しい」かのような錯覚を誘発する。本当は相応の「吟味や検証」が必要であるにもかかわらず、その必要性を覆い隠し、思考停止へと誘う。社会規範や通念、一つの基準だけに基づいた「格付け」に由来する権威や権力や成功(者)、教科書、自分以外の人の言動…。

「吟味や検証」が可能であれば、それをすればいい。でも、どうしても「吟味や検証」が困難な状況や状態に置かれ、それでも何とか自分の進む方向を判断しなければならない時、最後の最後に私が頼ることができるのは、私の「身体」だけだと思う。

渡り鳥が羅針盤を持ち合わせていないにもかかわらず、自分が飛んでいく方角を誤らないのは、自身の「身体」にインプットされた本能に依るところが大きい。

身の回りの規範やルールや人の言動といった、自分の「外」にある「羅針盤」が指し示す方向に、一見問題なく進むことができていたとしても、もしそこで、私の身体が何らかの「不調」をきたし、「そっちじゃない!」という「胸の中の音(声)」が聞こえたのなら、素直にそれに従うほうがいいのではないか。

心身の不調を抱え、社会生活が困難になってしまう人たち。その「最悪形」として「自死」を選んでしまう人たち。そんな人たちが「増え続ける」異常で危険な国、社会。

彼らの中には、もしかしたら自分の身体を「信じることができなかった」人たちが少なからずいたのかもしれない。身体から発せられる「不調」のメッセージを、自分の生命が危機に向かっていることを知らせる「アラート」として信じることができず、「(生き残るために)逃げる」という選択肢を採ることができなかったのかもしれない。あるいは「アラート」を信じて逃げようとしたにもかかわらず、周囲の人間や社会がそれを許さず、妨害してしまったのかもしれない。それはもう、「まともな環境や社会」の「損壊」としか言いようがない。

前者の人には「あなたの身体を信じてあげてほしい」とどうにかして伝えることができればと思うし、後者の人のためには、損壊したその人の周囲の環境や社会を何とか修復したいと思う。

そんな一言で簡単に取り組めるものでないことは分かっているけれども、私だって、いつ前者や後者の当事者になるか分からない。もしかしたら既に後者の「妨害」の当事者になってしまっているかもしれない。だから、自覚のある内にこうして言葉にしておく必要があった…と思う。

Kitriのお二人は、そういう文脈で「羅針の鳥」と歌っているのかどうか分からないけれど(多分違う)、私には、自分の進む方向を決めるものを、自分の「外」に求めるか「内」に求めるかを問われているように思えてならない。

まあ、自分の「外」と「内」の境界線がどこで引かれるのかは、これはこれで相当な吟味と検証が必要だろうけれども…。


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