備忘録113(2021.01.14)

ある時、就活生対象のセミナー見学会で、参加学生の一人からこんな質問を受けた。

「同じ『ケア』という仕事でも、例えば病院で入院患者のケアに当たる看護師さんであれば、患者さんの病気や怪我が治って、元気になって笑顔で退院していくといったところにやり甲斐を感じることもあると思うのですが、ここのスタッフさんの場合、相手にしている利用者さんは重度の障害をお持ちで、基本的にその障害や難病が『治る』ことはないわけですよね?『治る』見込みのない障害や病気を抱えた方々と日々接する中で、一体何が仕事のモチベーションになっているのでしょうか?」という趣旨だったと記憶している。

なかなかにグサリと来る質問である。やり甲斐やモチベーションというのは極めて主観的で個人的なものなので、軽々しく「この職種/業種のやり甲斐は…」などと一般化して語ることは厳に慎まなければならないのだけれども、この時は、一応「cureとcare」という観点から回答させていただいた。(とは言っても「ケア」とは何ぞや?という話はしていないし、私の頭の中でもあんまりまとまっていないのでできなかった)

この学生さんの言う「看護師が病院で入院患者に対しておこなうケア(care)」というのは、「治療(cure)のプロセスの一つ」を指す。「ゴール」はあくまでも病気や怪我の「治癒or寛解(を経ての退院)」であって、患者の心身に対する「ケア」は、この「治療」を円滑に進めるために必要な「一過程」として位置付けられる(当の現場の看護師さん一人一人がどう感じているかは別として)。

治療(とその一環としておこなわれるケア)には、治癒という「明確な」ゴールがあるけれども、それは「こうなったら『治癒した』と呼べる状態だ」という患者の「本来あるべき健康な状態」が一定程度はっきりと想定されているからこそ可能なことだ。いわゆる「リハビリ(rehabilitation)」も同じなのだろうけれど、「治療(cure)」には「矯正=あるべき正しい姿に立ち戻る/復帰する」というニュアンスが常につきまとう。つまり、基本的に治療やリハビリを受ける対象者は、一時的にせよ何らかの「異常な状態にある者」として扱われることになる。

件の学生さんが「看護師が入院患者に対しておこなうケア」について比較的容易に?「やり甲斐/モチベーション」を想起できたのは、その「ケアの目的(ゴール)=治療を通じての治癒」があまりにも「明確」だからだろうと思うのだが、その「明確さ」を担保しているのは「正常と異常の区別」であるという点には留意する必要がある。

「治る/治らない」という「治療(cure)」の視点で「障害当事者」と向き合うことは、「正常な私(=健常者)と異常なあなた(=障害者)」という向き合い方に通じていて、それは「あなた(=障害者)が私(=健常者)に『合わせる』べきだ」という一種の暴力性をも含んでいる。そのことに無自覚なままでいると、「ありのままのあなた(引いては『私』)」の存在を否定することになりかねず、実は非常に危険な認識であると言わねばならない。

そのことを踏まえて、私たち(重症心身障害者の日常生活に関わる)スタッフがおこなう「ケア(care)」について考えると、まずもってそれは「治療(cure)の一プロセス」ではない。

治療やリハビリでは、患者の「あるべき正しい状態(治癒・寛解)」=「(客観的な)ゴール」が最初から想定されているのに対して、私たちの場合は、利用者自身が「こうありたいと望む状態(生き方や暮らし)」=「(主観的な)ゴール」が、そもそも「どんなものなのか」を一緒に考えるところから関わりを始める(べきだと思う)。ケアが行き着くゴールの性質も、その設定の在り方もまるで異なるのである。

私たちのケアは、「生きること/暮らすこと全体の一プロセス」であって、ゴールとなる「生き方や暮らし」というのも、仮にある時点でそこに到達したとして、私たちのケアがそこで「はい、終了」となるわけではない。

「治療の終わり」が「治癒(寛解)or 死亡」という二択であるとすると、「生きること/暮らすことの終わり」というのは、実は「死」一択しかなく、私たちのケアは基本的に利用者の「生」が続く限り終わることはない(福祉サービスとしては、利用者の転居や事業所とのミスマッチによる、単なる「利用契約の終了」というケースも当然あり得るけれども…)。

私がそういう性質のケアの中にモチベーションを見出すとすれば、それは、一人の利用者が亡くなるその時に「生まれてきて良かった」と感じてもらえるかどうか(そしてそこにスタッフとしての私が「いっちょ噛み」できたのかどうか)――全てはそこに懸かっている気がする。

このようなモチベーションの捉え方は、医療の現場でも皆無ではないと思う。ホスピスのような「緩和ケア(治癒や寛解を目的としていないので『緩和キュア』とは言わないですよね)」の現場はその典型かもしれないし、福祉・介護分野でも高齢者を対象としている現場では、むしろポピュラーな観点なのかもしれない。

ただ、私たちの現場では、利用者の「人生の終わり」ばかりに焦点を当てているわけにもいかない。重い障害や難病のため、いつ体調が急変して亡くなってしまうか分からないという側面は確かにある一方、利用者の大半は20~40歳代。「今まさに自身の人生を紡いでいる真っ最中」なのである(いや、もちろん乳幼児~ティーン~高齢者の皆さんだって、それぞれに人生を紡いでいらっしゃることは分かっているんです。ここではいわゆる「現役世代」ぐらいのニュアンスで…)。

つまり、私たちスタッフには、ケアを通じてある利用者の「人生の終わりに向き合う」ことと、その人の「人生/生活を一緒に創り上げていく」こととが「同時並行的に」求められているのである。シビアな仕事と言われればそうなのかもしれないが、「いつどこでどうなるかは分からない――それでも今日を生きていく/暮らしていく/人生を紡いでいく」というのは、実は誰しもに課されていることだ。意識するとしないとにかかわらず。まして障害の有無も関係ない。

その「誰しもに課されていること」への「伴走」を仕事(生業/ナリワイ)にする者として、私は相手の走っている姿=生き様、そしてゴールを駆け抜ける姿=死に様を見届けることになるが、相手に向けられたその眼差しは、同時に私自身にも向けられる。私は如何に走り、如何に駆け抜けるのか?実はそうした「問い」こそが、この仕事へのモチベーションを駆動しているのかもしれない…あくまでも「今の私の場合は」だけれども。

…というような話をもっとグッと短く端折って、件の学生さんにしたんだけれども、多分、たいそうウザがられたことだろう。「この
オッサン、小難しいことしか言わねぇ上に話長ぇよ…」と。その学生さんは採用試験を受けに来ていない(はず)。