備忘録21(2017.03.30)

日本死ね」は「呪詛」であると同時に、れっきとした一つの「対案」だと思う。

現代日本社会が抱える問題を根本的に解決するためには、日本社会が「一旦死ぬ=破綻する=リセットされるほかない」という「対案」。

実際「戦後日本」はそのようにして誕生したわけで、日本にはいわば「実績」がある。加害と被害とを合わせて100万人単位の人命が失われ、それまでの社会の在り方が有形無形問わず完膚無きまでに叩きのめされた「リセット」という経験の実績。

その「実績」を踏まえた上での「日本死ね」発言(とそれに共感を示す言説)だとすれば、それは最早単なる呪詛ではない。

実際に日本社会が再び「リセットする」ことになった時、自分自身が「リセットのための犠牲」になるか、運良く生き残って「リセット後の再生の担い手」になるかは分からないけれども、いずれの結果になろうとも「日本社会の当事者の一人として振る舞い続ける」ことへの「覚悟」がそこにはある。

途中経過においてどんな外的要因があろうと、最終的に社会や組織の根本的な部分を変えることができるのは、結局その「構成員」「当事者」「内部の人間」しかいない。そしてその「変える」の中には、問題の根本的な解決のために、自らが属する社会や組織に「引導を渡す」という形で「解決策を示す」ことも含まれ得る。

つまり「日本死ね」発言に対して、「そんなに日本が嫌いなら出ていけ」という類の非難を浴びせる人間はただの「アホ」だということ。「出ていくことができない」=「私自身も関わらずには済まされない」という切実な「当事者意識」から絞り出された発言(提言)だということが全く分かっていない。

「批判ばかりしてないで対案を出せ」とよく言うけれども、「日本死ね」=「多大な犠牲を払うかもしれませんが、一旦社会をリセットしましょう」これも立派な「対案の一つ」に成り得るという視点を忘れてはいけないのではないか。