備忘録92(2019.10.16)

「ボランティアが不足している」という語法、いい加減やめてください。

一定規模のボランティアの確保を前提として、問題解決に必要なリソースがやっと「±0」になる想定はマジであかん。

volunteerはあくまでも「義勇兵(志願兵)」でしょ。「志願者が不足している(から、もっと志願させろ)」って、それはもう「志願」じゃねえっつうの。

災害支援然り、オリパラ然り、社会保障施策然り…。「互助」や「自助」の「促進」ではなく「(促進を装った)強要」が蔓延している。自己責任論の巧妙な浸透。

日本社会のネオリベ化が止まらない。

公共の福祉(社会の構成員が等しく享受すべきもの)に必要なリソース(ソフトもハードも人員も…)確保のためには、それに見合う公共の予算をつける。そのために富を再分配する。

基本的な問題解決は「正規軍」で充足させる。「義勇兵」はあくまでも「+α」…一昔も二昔も前なら、こういうのって「左」とか「革新」とか呼ばれてたんかもしらん。でも今となっては、これが「全うな保守」なんじゃないかい??

ボランティアや互助・自助って、言い換えれば、問題に対する「いかんともしがたい当事者性の発露」なんだと思います。

「私もその問題の退っ引きならない当事者だから、何もせずにはおれない」っていう。

社会のいろんな課題や問題に対する当事者意識を人々から引き出す社会的なアクションがあって、その「結果」として、ボランティアや互助・自助が充実するんだとしたら、それはとても素晴らしいことだと思うし、ひょっとしたら「正規軍以上」の力を発揮する可能性だってある。

「当事者意識(当事者性)」はそれぐらいのポテンシャルを内在していると思います。

その当事者意識の「醸成や喚起」を抜きにして、あるいは当事者性とその発露であるボランティアへの「敬意やリスペクト」を抜きにして、単に「ローコストな戦力」としてボランティアを勘定に入れる、それを確保するための「餌」として当事者意識を煽動的に取り扱う、そういうある種の「意地汚さ」に嫌悪を覚えるのです。腹が立つのです。辟易するのです。