備忘録93(2019.11.29)

【疑似老子的社会もしくは韓非子もどき的社会】


「どうか、きゃつらに天罰よ、下りたまへ」と祈らずにはおれない案件が多過ぎて目が眩む。警察も動かない、検察を含む司法もだんまり。だったらもう「天罰」頼みしかないじゃん…って、日本が法治国家ではないことを喧伝しているようで、何とも情けない。

だがしかし、もし仮に「天網恢恢疎にして漏らさず」的な「天罰システム」がエラーなく完璧に機能するとしたら、人間社会から司法や警察は必要なくなり、ひいては法律や様々なルールも必要なくなり、そもそも私たちは「善悪」について考える必要がなくなる。

天罰命中率100%の社会では、人間の倫理観は成熟しないどころか、むしろ完全に損なわれてしまう。

自分や他人に何か「良くないこと」が起こったら、それは全て「天罰」として認識・処理され、「あー、わたし(あの人)は何か悪いことをしたんだな」で基本的に事が完結する。

わたし(あの人)がした「悪いこと」が、10分前のことなのか、昨日のことなのか、10年前か、前世か…などという事後的な精査も意味をなさない。「善悪」を判断し、「罰」を下す権限と責任は全て「天」にある=人知を超えている。細かいことは人間風情が思いを致すことすらおこがましい。

「わたし(あの人)の振る舞いの何が『悪』だったのか?」と事後的に考えるこすら無意味なのだから、当然のことながら、「今からわたしがやろうとしていること」の「善悪」だって誰も考えなくなる。その判断に「わたし」の時間や労力を費やすことは「無駄」なことであり、「天」に対する「不敬」なのである。

過去と未来の行為に限らず、仮に「今」目の前で、殺人や強盗が起きようが、それは「放っときゃええ」のである。それがもし「天」から見て「悪いこと」ならば、それを犯した者にはどうせ早晩某かの適切な「天罰」が下る。だから「放っときゃええ」となる。

そういう状況が基本設定となっている「天罰システム」社会において、それでも何とかして「何が悪なのか」を事前に知り「天罰を回避しよう」あるいは、「何が善なのか」を事前に知り「天のお褒めに与ろう」と必死になる人間が出てくる。

彼等に為し得ることは唯一つ。過去に「天罰が下った者たち(天のお褒めに与った者たち)」の事例を掻き集めて統計的な分析をおこない、「どうやらこういうことをすると天罰が下る(天のお褒めに与る)可能性が高いらしい」という確度の高い推測値を導き出すことである。

これを世に「忖度」という。

もうお分かりでしょう。今の現実社会では、人知を超えた「天」による全き「天罰システム」なんか「機能していないにもかかわらず」、ある人間たちは必死に何かに対して忖度し、ある人間たちは目の前で犯罪案件が進行中であっても「放っときゃええ」という態度を貫いているのです。

はい、ここでそういう「ある人間たち」が「天」に擬しているのが、言わずもがな「アベ様」であり、「官邸御中」なわけです。そしてまた、言うまでもないことですが、アベ様や官邸御中は万に一つも「人知を超えた存在=天」ではあり得ません。

にもかかわらず、「ある人間たち」は
何故彼等を「天」と見なして振る舞うのか?

これはもう、アベ様や官邸御中が見惚れるほどに「信賞必罰」を徹底しているからにほかなりません。「政権にとってプラスになること」=「善」、「政権にとってマイナスになること」=「悪」という絶対不動の基準に則って信賞必罰が「遺漏なく」執行されます。

「善」を為せば出世したり、減税してもらったり、犯罪を揉み消してもらったり、公費で飲み食いさせてもらったりします。「悪」を為せば地位を追われたり、自殺に追い込まれたり、犯罪者として逮捕・起訴されたりします。

こうした信賞必罰の徹底ぶりに、政権に忖度するでもなく、逆に歯向かうでもない「その他大勢の人たち」は、「関り合いにならんとこ…」「何をしたってどうせ無駄。なるようにしかならん。放っとけ放っとけ…」と言って「無関心・無思考・無抵抗」ゾーンに身を潜めることとなり、アベ政権による人為的な「天網恢恢疎にして漏らさず」が見事に完成しました。

警察も検察も裁判所も必要ない、法律も必要ない、誰一人として「普遍的な善悪の基準(倫理)」を希求しない「楽園」の出来上がり。

めでたし、めでたし。