備忘録70(2019.02.15)

さっき、とあるお世話になった方々にお礼状を認めていて、末尾に「敬白」と書いた時に、ふと思った。何故「白」には「言う」とか「申す」とかいう意味があるんだろう?告白、独白、自白、科白(せりふ)…全て「白い=white」とは一見関係無さそうな言葉だが、全て「言う/申す」という意味で「白」を使っている。

学生時代にお世話になった『大漢和辞典』を出版している大修館書店のホームページで、そのことに言及した記事があった。http://kanjibunka.com/kanji-faq/old-faq/q0389/

これによると、ここでいう「白」とは「潔白」と連関があるらしい。「自分の言葉に嘘偽りがないこと=潔白であることを訴える」というニュアンスで「白」=「言う/申す」となると。なるほど、確かに告白にせよ、独白にせよ、自白にせよ、「偽らざることを言う/口にする」という意味合いを纏っている言葉ではある。

一方で、内田樹先生の「言論の自由」に関する記事を読んでみると、「潔白」とはまた別の角度から、「白」が「言う/申す」の意味を背負っている訳を感じ取ることができるかもしれない。
http://blog.tatsuru.com/2019/02/14_0903.html

私はこの内田先生の記事を読んで、「言葉」を「白日の下に晒す」というイメージを思い浮かべた。自分の言葉の正否真偽の審判を相手/他者~パブリックな「場」に託す=白日の下に差し出す…だから「白」=「言う/申す」なのではないか。

言論の自由」が、単に「言いたいことを言える自由」なのではなく、自身の差し出した言説の理否を忌憚なく吟味し、判定することのできる「他者」や「場」の存在を信認することで初めて成立する概念なのだとしたら、自身の言説の「正しさ」を前提にして言葉を発するわけにはいかない。

言葉を発する側が主張する「正しさ」や「真理」といった、謂わば「特定の色」に染まっていない「まっさらな=真っ白な相手/他者/場」が「言論の自由」の担保には欠かせない。「白日の下」というのは、言説に関する偏った前提条件や誤魔化しが通用しない、まさにそういうパブリックな「場」のことではないだろうか。

「白日の下」という「場」は、放っておいても勝手に出来上がるものではないわけで、それこそ私たちは「不断の努力」によって、それを築き、守り抜くことが求められていると感じた昼下がりなのでした。