備忘録114(2021.03.11)

タクさんが突然自宅で息を引き取って、今日でちょうど1ヶ月。そんなに駆け足で過ぎ去ってくれるな、と時間を恨めしく思うのもお門違いで、勝手に駆け足で1ヶ月を過ごしてしまったのは私自身の問題か…。

亡くなった利用者さんを見送る時、「お疲れ様」「ありがとう」と並んで大体いつも心に浮かぶのは「生まれてきて良かった(って感じながら/感じてから逝けた)?」という問いかけ。

これは、見送る相手が利用者さんだから出てくるものなのか、相手が亡くなるその瞬間に立ち会っていないから出てくるものなのか。私がこれまで唯一「臨終」に立ち会ったのは自分の父親だけなのだけれど、その時も同じような問いかけを父にしたのかどうか、まだ3年も経っていないのに、よく覚えていない。

とにかく、亡くなったタクさんを見送る時は、問いかけた。そして、他の亡くなった利用者さんと同じく、今度も本人から直接回答をもらうことは望むべくもなかった。

ただ、タクさんの告別式が終わり、棺を乗せた霊柩車を見送る段になって、タクさんのお母さんが、霊柩車に乗り込む間際、私たち会葬者のほうに向き直り、たった一言、はっきりとした口調で「幸せでした」と「断言」した。

無言の会釈でもなく、「ありがとうございました」でもない、「幸せでした」--

お母さんの一言は、文字通りの「一言」だったので、主語も無かった。主語は「タクヤ」だったのか、「タクヤの母として生きることができた私」だったのか、あるいはその両方だったのか。

もちろんそこには、「皆さんと出会い、お付き合いできたからこそです。本当にありがとうございました。」という言外の感謝もきっちりと織り込まれていた。

「生まれてきて良かった?」への回答は、いつも推測するしかなかった。私の知るそれまでの相手の人生、亡くなった経緯、棺の中の相手の表情と佇まい、ご遺族の様子…そうした断片を拾い集めて、返ってくる当てもない回答に思いを致すしかなかった。

あるいは、「本人も幸せだったと思います。」と語るご遺族はこれまでも多く見てきたけれど、それもまたご遺族の推測に過ぎない(ただ、推測だったとしても「幸せだった」と思えること自体が貴重であることには違いない)。

ところが、タクさんのお母さんは「幸せでした」と断言した。そんな人は多分初めてだった。つまり、亡くなった本人から直接ではないものの、こうまではっきりとした「回答」をいただいたのも初めてだった。

この「断言」は、それを裏付ける「生き方」をしてこなければ決して発することのできないものだと思う。「幸せでした」の主語がタクさんであれ、お母さんであれ、41年余りを寄り添い合って生きてきたことへ万感が、この一言に詰め込まれている。

私が「生まれてきて良かった?」と亡くなった利用者さんに問うのは、もしかしたら、(感覚や感情は別として)あくまでも「ケアワーカー」というパブリックな立場で生前の彼/彼女に接してきた、時間を共にしてきた、そのことに意味があったのか?私のその仕事に「成果」はあったのか?それを確かめたい欲求に駆られているからなのかもしれない(これは不謹慎なのか?)。

「生まれてきて良かった?」には「続き」があったということだ。

…あなたが「生まれてきて良かった」と感じて亡くなったとして、私はそこに「いっちょ噛み」できたのでしょうか?

職業人(ケアを生業とする者)としての私にとっては、この「いっちょ噛みできたかどうか」が、「仕事の成果」に関わる死活問題だと感じているということなのだろうか。ただ、その問いが「問いだけで終わる」前提でしか発せられないことも分かっていて、なお問うているという自覚もあるにはある。だから、基本的にその「成果」とやらは確かめようがない。

しかし、今回のお母さんの「幸せでした」には、私がそこに「いっちょ噛み」させてもらえたという確かな手応えを感じる「威力」が確かにあった。それほどに刺さった。ありがたいことこの上ない。

翻って、私は同じ言葉をタクさんのお母さんのように堂々と「断言」できるだろうか。

鎌倉時代のとあるお坊さんの言葉を改めて噛み締める。

【先ず臨終の事を習うて、後に他事を習うべし。】

何よりもまず「死に際/死に方」に思いを致せ。どんな「死に際/死に方」をゴールとして定めるかによって、そこに至る「生き方」が変わってくる。

自分自身も、自分の周りの人たちも、一人でも多くの人が「生まれてきて良かった」と心底感じて死ねる(そういうゴールに辿り着けるように生きることができる)にはどうすればいいのか。

ここまで来ると、もう「職業人として」みたいな、せせこましい?「立場」の問題ではなくなってくるけれども、それでも「ケアワーカー」というナリワイは、こういう問題の核心「近辺」をうろちょろするには打ってつけなのかもしれない。

しかしまた、奇しくも今日は東日本大震災の発災から10年という節目の日でもある。震災で(関連死も含めて)亡くなったお一人お一人は、その臨終の瞬間、何を感じたのだろうか。「まだ死にたくない/死ねない」「何で私が」…言葉にならない恐怖や悔恨や絶望の中で亡くなった方が大半だったのだろうか。

あまりにも不慮の死を迎えることになった人に対しては、「生まれてきて良かったですか?」などという問いは、無神経極まりない「暴力性」すら帯びてしまう。

そう考えると、タクさんや他の亡くなった利用者さんに対して、あまり抵抗なく「問う」ことができたのは、生前の彼/彼女らと接する時、常に頭のどこかで「死」を意識していたからかもしれない。あるいは無意識下で本能的に感じながら接していたからか。しかもお互いに。

すると、彼/彼女らの「死」は限りなく「不慮」から遠ざかる。傍目には「不慮」に見える亡くなり方も、私たち当事者にとっては「常に覚悟していたこと」になる。

「生まれてきて良かったか?」と問い/問われ、「良かった」と答え/答えられるための要件の一つは、もしかしたら、意識するとしないとにかかわらず「死」を身近なものとして引き受けながら日常を送ることのなのかもしれない。

2021.03.11

備忘録113(2021.01.14)

ある時、就活生対象のセミナー見学会で、参加学生の一人からこんな質問を受けた。

「同じ『ケア』という仕事でも、例えば病院で入院患者のケアに当たる看護師さんであれば、患者さんの病気や怪我が治って、元気になって笑顔で退院していくといったところにやり甲斐を感じることもあると思うのですが、ここのスタッフさんの場合、相手にしている利用者さんは重度の障害をお持ちで、基本的にその障害や難病が『治る』ことはないわけですよね?『治る』見込みのない障害や病気を抱えた方々と日々接する中で、一体何が仕事のモチベーションになっているのでしょうか?」という趣旨だったと記憶している。

なかなかにグサリと来る質問である。やり甲斐やモチベーションというのは極めて主観的で個人的なものなので、軽々しく「この職種/業種のやり甲斐は…」などと一般化して語ることは厳に慎まなければならないのだけれども、この時は、一応「cureとcare」という観点から回答させていただいた。(とは言っても「ケア」とは何ぞや?という話はしていないし、私の頭の中でもあんまりまとまっていないのでできなかった)

この学生さんの言う「看護師が病院で入院患者に対しておこなうケア(care)」というのは、「治療(cure)のプロセスの一つ」を指す。「ゴール」はあくまでも病気や怪我の「治癒or寛解(を経ての退院)」であって、患者の心身に対する「ケア」は、この「治療」を円滑に進めるために必要な「一過程」として位置付けられる(当の現場の看護師さん一人一人がどう感じているかは別として)。

治療(とその一環としておこなわれるケア)には、治癒という「明確な」ゴールがあるけれども、それは「こうなったら『治癒した』と呼べる状態だ」という患者の「本来あるべき健康な状態」が一定程度はっきりと想定されているからこそ可能なことだ。いわゆる「リハビリ(rehabilitation)」も同じなのだろうけれど、「治療(cure)」には「矯正=あるべき正しい姿に立ち戻る/復帰する」というニュアンスが常につきまとう。つまり、基本的に治療やリハビリを受ける対象者は、一時的にせよ何らかの「異常な状態にある者」として扱われることになる。

件の学生さんが「看護師が入院患者に対しておこなうケア」について比較的容易に?「やり甲斐/モチベーション」を想起できたのは、その「ケアの目的(ゴール)=治療を通じての治癒」があまりにも「明確」だからだろうと思うのだが、その「明確さ」を担保しているのは「正常と異常の区別」であるという点には留意する必要がある。

「治る/治らない」という「治療(cure)」の視点で「障害当事者」と向き合うことは、「正常な私(=健常者)と異常なあなた(=障害者)」という向き合い方に通じていて、それは「あなた(=障害者)が私(=健常者)に『合わせる』べきだ」という一種の暴力性をも含んでいる。そのことに無自覚なままでいると、「ありのままのあなた(引いては『私』)」の存在を否定することになりかねず、実は非常に危険な認識であると言わねばならない。

そのことを踏まえて、私たち(重症心身障害者の日常生活に関わる)スタッフがおこなう「ケア(care)」について考えると、まずもってそれは「治療(cure)の一プロセス」ではない。

治療やリハビリでは、患者の「あるべき正しい状態(治癒・寛解)」=「(客観的な)ゴール」が最初から想定されているのに対して、私たちの場合は、利用者自身が「こうありたいと望む状態(生き方や暮らし)」=「(主観的な)ゴール」が、そもそも「どんなものなのか」を一緒に考えるところから関わりを始める(べきだと思う)。ケアが行き着くゴールの性質も、その設定の在り方もまるで異なるのである。

私たちのケアは、「生きること/暮らすこと全体の一プロセス」であって、ゴールとなる「生き方や暮らし」というのも、仮にある時点でそこに到達したとして、私たちのケアがそこで「はい、終了」となるわけではない。

「治療の終わり」が「治癒(寛解)or 死亡」という二択であるとすると、「生きること/暮らすことの終わり」というのは、実は「死」一択しかなく、私たちのケアは基本的に利用者の「生」が続く限り終わることはない(福祉サービスとしては、利用者の転居や事業所とのミスマッチによる、単なる「利用契約の終了」というケースも当然あり得るけれども…)。

私がそういう性質のケアの中にモチベーションを見出すとすれば、それは、一人の利用者が亡くなるその時に「生まれてきて良かった」と感じてもらえるかどうか(そしてそこにスタッフとしての私が「いっちょ噛み」できたのかどうか)――全てはそこに懸かっている気がする。

このようなモチベーションの捉え方は、医療の現場でも皆無ではないと思う。ホスピスのような「緩和ケア(治癒や寛解を目的としていないので『緩和キュア』とは言わないですよね)」の現場はその典型かもしれないし、福祉・介護分野でも高齢者を対象としている現場では、むしろポピュラーな観点なのかもしれない。

ただ、私たちの現場では、利用者の「人生の終わり」ばかりに焦点を当てているわけにもいかない。重い障害や難病のため、いつ体調が急変して亡くなってしまうか分からないという側面は確かにある一方、利用者の大半は20~40歳代。「今まさに自身の人生を紡いでいる真っ最中」なのである(いや、もちろん乳幼児~ティーン~高齢者の皆さんだって、それぞれに人生を紡いでいらっしゃることは分かっているんです。ここではいわゆる「現役世代」ぐらいのニュアンスで…)。

つまり、私たちスタッフには、ケアを通じてある利用者の「人生の終わりに向き合う」ことと、その人の「人生/生活を一緒に創り上げていく」こととが「同時並行的に」求められているのである。シビアな仕事と言われればそうなのかもしれないが、「いつどこでどうなるかは分からない――それでも今日を生きていく/暮らしていく/人生を紡いでいく」というのは、実は誰しもに課されていることだ。意識するとしないとにかかわらず。まして障害の有無も関係ない。

その「誰しもに課されていること」への「伴走」を仕事(生業/ナリワイ)にする者として、私は相手の走っている姿=生き様、そしてゴールを駆け抜ける姿=死に様を見届けることになるが、相手に向けられたその眼差しは、同時に私自身にも向けられる。私は如何に走り、如何に駆け抜けるのか?実はそうした「問い」こそが、この仕事へのモチベーションを駆動しているのかもしれない…あくまでも「今の私の場合は」だけれども。

…というような話をもっとグッと短く端折って、件の学生さんにしたんだけれども、多分、たいそうウザがられたことだろう。「この
オッサン、小難しいことしか言わねぇ上に話長ぇよ…」と。その学生さんは採用試験を受けに来ていない(はず)。

備忘録112(2020.08.01)

障害当事者に対する「合理的配慮(マイナスをプラマイゼロにすること)」と「特別扱い(ゼロにプラスすること)」を履き違えている。

その考え違いから「特別扱いしない」ことを口実に差別や侮辱を正当化し、一人の人を死に追いやった。

その差別や侮辱行為こそが(マイナスの意味での)「特別扱い」だということに被告側はまだ気付かないのか。

災害発生時、こうした「合理的配慮」と「特別扱い」の履き違えから、障害当事者が(一般)避難所にいられなくなるというケースをよく耳にする。差別する側は「非常時なんだから障害者だからって特別扱いはできない」と、さも最もらしいことを言うが(実際は「差別」という意味で「特別扱い」しているのだが)、そもそも当事者側の多くが求めているのは「当事者以外の避難者と同じレベルで避難生活を送ること(そのための配慮)」であって「他の避難者より有利になるような何かをプラスαで与えろ」と言っているのではない。そして「非常時」であればこそ、なおさらその「合理的配慮」は当事者にとって死活問題となる。

しかし今回の事件は、この「履き違え」が非常時だけでなく「日常」であっても、障害当事者の死活問題になってしまうことを明らかにした。合理的配慮と特別扱いの「単なる勘違い」では済まされない。

https://news.yahoo.co.jp/articles/ac6b42be1ebaa2b54efcaa24f1723c0b0aaa58ad

備忘録111(2020.07.29)

そう、ALSに罹患していた女性の安楽死事件然り、(この事件を受けての)維新のドンによる「尊厳死について(推進する方向で)真正面から議論しよう」ツイート然り、RA●WI●P●の彼の「ザッツ優生思想」ツイート然り…2016年7月26日のあの出来事は、「風化」どころか「現在進行形」なんだということを思い知らされる。

最近になって?優生思想的な言説が息を吹き返してきた?ことと、新自由主義ネオリベラリズム)的価値観が社会全体を覆いつつある(というか、多くの人々の個々の価値観=内面を侵蝕しつつある)こととが相関関係にあるような気がしてならない。というか、多分そうなんだろう。

教育や学問にしろ、医療や福祉にしろ、さらには個々人の存在自体にしろ、「有用性(役に立つ/立たない)」の判定基準が「お金を稼げるかどうか」一択になりつつある…というか、なってしまった、なって長いこと経つ?

「生きることの価値」=「市場価値(労働力としての価値/資本に寄与することのできる度合い)」一択になりつつある…というか、なってしまった、なって長いこと経つ?

この等式によって「社会的弱者(市場価値がない=生きる価値がない)」にカテゴライズされてしまった人たちが、「それでも何とか死なずに生きていられるようにする仕事」=「福祉の仕事」になってしまっていないか?

今の社会の在り方という「土俵」はそのままに、その「土俵の上で」という条件付きで、「何とか生きていられる」よう支援(サポート)する…それって、あくまで「対症療法」ですよね?

もちろん、その「対症療法」(いわゆる既存の福祉的な支援・サービス)にすらアクセスできていない=潜在化してしまっている当事者も大勢いるはずで、「対症療法」も社会インフラとして不可欠であることは言わずもがなですけど、それでも問いかける必要があると思う。福祉の仕事って、そこ(「対症療法」)で自己完結しちゃっていいんだろうか?

「対症療法」に加えて、上のような等式で「生きることの価値」を勝手に押し付けられるような「土俵」そのものを作り替える「根本治療」までを、自身の仕事の射程圏内に入れることができるかどうか。いわゆる「福祉」関係者にはそこが問われることになる/既に問われている気がしています。

「土俵を作り替える」仕事は、もちろん福祉分野だけでは為し得ませんけれども、今の社会で如何ともしがたい「生きづらさ」を抱える人たちの一番傍に身を置いている、いわば「生きづらさと対峙する最前線」を担っているのが私たち福祉関係者なのだとしたら、私たちが果たす役割は私たちが思っている以上に大きいのではないかと思っています。

私たちは、もっとラディカルになっていい。暴動とか武力革命を起こすとか、そういう意味じゃなくて(それはそれで意味はあるんだろうけど)、もっと社会や人間の「根っこ」「そもそも」部分に切り込むという意味で。

「生きづらさ」を「障害」と呼ぶとしたら、「この世に『健常者』なんてそもそも存在しない」=「みんな(私もあなたも)障害者でしょ?」--それぐらいの、ちゃぶ台返しみたいな認識からスタートしたっていいんじゃない?


【補記】
https://www.jiji.com/sp/article?k=2020072900915&g=pol

https://twitter.com/oishiakiko/status/1286511690943627270?s=19

尊厳死安楽死の推進→医療費と社会保障費のカット=税金の節約(コストカット)に成功!→小さな政府万歳!選択と集中ネオリベ万歳!

…的な思考回路が見え透き過ぎてキモい。


https://twitter.com/NatsukiYasuda/status/1286856431182819329?s=19

https://mainichi.jp/articles/20200727/k00/00m/040/128000c.amp?__twitter_impression=true

http://blog.tatsuru.com/2020/06/12_1352.html

https://toroo4ever.blogspot.com/2020/04/blog-post.html?m=1

備忘録110(2020.05.28)

「インフラ=infrastructure」の対義語は「スーパー(スープラ)=superstructure」らしい。普通、インフラは「社会基盤」と訳されるけれども、原義的にはインフラ=下部構造、スープラ=上部構造。マルクスも用いた概念で、私も勉強不足で詳しくは知らないんだけれども、いろいろ総合すると、インフラ=「実体があってsolidなもの」、スープラ=「実体がない/あっても掴みにくい/変化しやすいliquidなもの」というイメージに落ち着きました

で、今回のコロナ禍で感じたことの一つが、「公的サービスとしての障害者福祉や介護って、やっぱりインフラ(社会基盤)なんだなぁ」ということ。

「それが無いと困る人が大勢いる」=インフラとして社会的にも認知されているから、障害福祉サービス事業所は基本的に休業要請の対象にはならなかったし、生活介護(障害者版デイサービス)なんか、臨時的な取扱いとして、「自宅(訪問)支援」や「電話による相談対応」を「生活介護(通所)サービスを提供したものとみなす」という救済?措置まで設けられたほど。

そうした状況に置かれて、改めて「あ、そう言えばインフラだったのね、うちらの仕事は。ちょっと忘れかけてたけど…」てなもんです。

いや、世間一般的には、コロナ禍云々にかかわらず、そもそも社会保障費で回っている=制度化されている時点で「そりゃ、インフラに決まってんでしょ(今更何を仰っているの?)」という認識なんでしょうけど、「制度化以前」の障害者福祉や介護って、一部の当事者や有志に支えられたある種の「スープラ(思想・概念・イデオロギー)」的な要素が強かった思うんですね。

支援やケアがソリッドなもの(手堅いもの)として社会的に定着していたわけではなく、家族や一部のボランティアや篤志家?によって何とかやりくりしていたリキッドなもの(それを取り巻く状況が流動的で常に存続の危機に瀕しているもの)だった。

それを、私なんかには想像もつかないような先人達の血と汗と涙によって「インフラ」に「した」んですよね…。でも私と同世代か、それより若い世代になってくると、地域差もあるかもしれないけれど、大抵は障害者福祉や介護が「最初から」インフラとして認知されている状況下でこの業界に関わるようになる。

すると、既にインフラ化した障害者福祉・介護の仕事=ルーティン化した仕事→物足りない→何か「+α」的なことをクリエイトしたい!という動機でこの業界に入ってくる人たちが常に一定数は存在するようになってくる。

(※もちろん、必ずしもインフラ化=ルーティン化ではないし、そもそもルーティン=ネガティブなものと決めてかかる態度自体にも違和感はある。支援・介護…というか「ケア」というのはもっともっと奥深い、根深いものなんだけれども、表層的にはインフラ=ルーティン=単純で退屈に見えないこともない。)

仮にこの「+α的なこと」を、まだクリエイトされていない「未成形のもの」「ケア(支援・介護~仕事の基礎)の“上”に成り立つ何やら高尚チックなもの」という意味で「スープラ」と考えるなら、先人たちの「障害者福祉・介護をスープラからインフラにするぞ!(カタチになっていないものをカタチにするぞ!=制度によって保障されていないものを保障させるぞ!)」とは真逆の、「障害者福祉・介護をインフラからスープラにするぞ!(制度による保障でカタチが定まってしまった硬直状態から脱却するぞ!)」みたいなモチベーションが現在は成立していることになる。

私自身も、いつの頃からか、もろにこの「スープラ志向」で突っ走ってきたクチだと思う。だからこそ、今回のコロナ禍が契機となって「あっ、そう言えばうちらの仕事って(世間的には)インフラやったんやな…」と「再確認」させられた、みたいなところがある。

しかし、である。「スープラ志向」によって、某かの新しい取り組みをクリエイトしたとして、結局のところ、それが「現場(支援やケアの現場+人々の日常生活の現場)」に何らかのカタチをもって根付かない限りは、ただの机上の空論、観念の遊戯みたいなもので終わってしまう。つまり、いかに「スープラ志向」で意識高い系?を気取ってみたところで、自分の取り組みに意味を持たせるためには、その取り組みに実体を持たせる=インフラ化することを目指さざるを得ない。

考えてみれば単純で、現状のスタンダードに疑問を持つ→新しい取り組みを起こす→それを新しいスタンダードにする→その新しいスタンダードに疑問を持つ人が出てくる→更に新しい取り組みが起こる→更に新しいスタンダードが生まれる→…(以下、繰り返し)

保守→革新→保守→革新→保守→…みたいな輪廻からは抜け出せないし、別に無理して抜け出す必要もない。「スープラ志向」で仕事をしたければ、①「保守(インフラ)→革新(スープラ)」の過程に身を置くか、②「革新(スープラ)→保守(インフラ)」の過程に身を置くか、あるいは③両方の過程に当事者として関わるか、恐らくこの①~③しか選択肢はないし、①~③のどれを採っても大変で、でもきっとその大変さに見合う手応えややりがいはある。

ただ、それを8時間/日(40時間/週)の「労働」基準の範囲でやれるかどうかは、業界によっても、個々の職場によっても、大きく環境が異なるだろうし、ここでも「労働(ライフ=ワークバランスの“ワーク”)」と「仕事(ライフワークの“ワーク”)」の狭間で葛藤を余儀なくされる人は少なくないだろう。うちの職場にもそういう若手・中堅スタッフをちらほら見かけるし、私自身もこの辺の葛藤で日々ブレまくりなのであります。

そして、コロナ禍を含めた災害時=「有事」の時ほど、福祉の現場には「インフラ」としての機能が求められることは先述の通り再確認済みで疑いようもなく(欠かせない社会基盤として認知されているってことで、それ自体は決してネガティブなことではないんだけど…)、「現場を回すことが最優先」的空気が「平時以上に」現場を包み込む。

私は、そんな空気に時には意気消沈しつつも、虎視眈々と「①保守→革新(既存のインフラをじっくり吟味して課題・問題点をスープラとして抽出する)」「②革新→保守(抽出したスープラを新しいインフラとして実体化する)」に取り組む機会を窺う、地に足の着いた?粘着質系「スープラ志向」スタッフでありたいと思うし、そういう同志?がいたら、何とかしてお互いに支え合いたいという思いを新たにするのでした。

備忘録109(2020.04.30)

エビデンスを示さない政府と、エビデンスが示されなくても「お達し」に唯々諾々と従う国民(あまつさえ政権批判の封じ込めや相互監視を“善意で”買って出る国民も一定数いる)…そんな地獄のような取り合わせで「一致団結!Stay home!」とか言われても、恐怖しか感じない。

https://twitter.com/TomoMachi/status/1255659894591549440?s=19

「緊急事態宣言延長」の判断基準=根拠(エビデンス)として、「感染状況(感染者数)」を自ら挙げておきながら、「で、現在の国内感染者数は?」と問われると、メディアで四六時中報じられている「感染『確認』者数」すら即答できない。挙げ句の果てに「現在の感染者数は何名かなんて、事前の質問通告に書かれていないから答えられない」だとさ。

もちろん、日本在住(+滞在)者全員の検査なんて到底無理なわけだから、「感染者の『実数』」なんてのは誰にも分からない。けれども、その「実数に少しでも近いデータ」を得るため、引いてはそのデータに基づく合理的な対策を打つために「検査拡充を!」ってもうかれこれ2ヶ月以上は言われ続けているのに、未だに増えない検査件数。

これって、もう、政府は「エビデンス(に基づく合理的な対策)なんか最初から考えてません。『なんとなく』の雰囲気と『思い付き』で決めてるんで」と宣言しているに等しいんですけど…

何度でも言いますけど、今回のコロナ禍、こと日本については「ほぼ人災」としか思えません。

https://twitter.com/cIHtcCLzQtI7ZPX/status/1255424764153298946?s=09

ほんま、一体、何百人?何千人?何万人?死んだら真剣に取り組んでもらえるのか、あるいは辞めてもらえるのか。

https://twitter.com/JCyouli/status/1255298860173402115?s=09


中小企業や個人事業主向けの「持続化給付金」。その大きな対象要件がコロナ禍の影響で事業収入が「50%以上減収」なんだけれども、「何故50%が基準?」と問われると「お金(組める予算)には限度がある=どこかで線引きしないといけない」からだと。はい?その「限度=線引き」の根拠(=事業収入50%以上減の事業者しか救済対象にできない根拠)を示してくれと言うとるのに、具体的な予算額などを示して説明するでもなく、「(何となく)お金が無いから」なんて「エビデンス」でもなんでもないってば。

そこで(胡散臭い都知事じゃなくて、信用できるほうの)小池さんがピシャリと指摘。「Go toキャンペーン」1.7兆円?今すぐ慌てて手当てする必要のない大企業向けの出資枠1,000億円?アベノマスク466億円?…

中小企業や個人事業主だけでなく、医療現場、学生、文化芸術分野の人たち、非正規労働者…「命や暮らしを繋ぐために一刻を争う人たち」に対してもっと手厚い支援を実現するためのお金…

あるじゃないですか!

https://twitter.com/TadTwi2011/status/1255777551894507521?s=09

備忘録108(2020.04.23)

橋下さんや吉村知事のメディア露出が増えていますが、その露出の仕方も、どこかメディア側が「もてはやしている」雰囲気が感じられて、とても不気味です。

住吉市民病院を潰したのは誰か、府立母子医療センターが保育器購入の費用をクラウドファンディングで集めなければならないほど予算を付け渋っていたのは誰か…他ならぬ維新の政治家たちです。

今回の十三市民病院の「コロナ中等症患者専従化」が、病院関係者や患者の知らないところでぶち上げられたことも含めて、維新は小児医療や周産期医療に恨みでもあるのか?と思いたくなるようなことばかりです。

選択と集中」を旨とするネオリベ的な政策を、医療や教育や福祉の領域にまで節操なく持ち込んで、大切な社会インフラを散々ぶっ壊しといて、今さらドヤ顔でコロナ関連の体制整備に迅速に?対応しているポーズを取られても困ります。マッチポンプです、そんなの。

https://twitter.com/murekinnoto/status/1252943092535066624?s=19