備忘録76(2019.05.31)

川崎の殺傷事件。テレビのどのチャンネルを見ても、防犯、防犯、防犯…。

「子どもを守るにはどうすればよいか」は確かに重要だけれども、自分自身の「当事者性」を「被害者」サイドに働かせるだけでいいんだろうか。

「殺された子どもや保護者は、我が子や私自身だったかもしれない」とは思っても、「あの犯人は、もしかしたら私自身だったかもしれない」と思う人はいないのだろうか。

「防犯」「安全」の名のもとに、人間不信や社会不信を助長させるような「一億総監視システム」を着々と築き上げていくことが、本当に問題の解決に繋がるのだろうか。

「あの犯人は私だったかもしれない」という当事者性に基づいて、「『私=犯人』は何故あのような蛮行に至ってしまったのか」を丁寧にトレースしていくことは省みられなくてよいのだろうか。

テロや凶悪犯罪の温床として社会(の構造)が抱えている問題(病)に着目する言説は、ともすれば「そんな根深い問題、解決に何百年かかんだよ」的な感じで、確かに「ウケ」は悪いのかもしれない。

でもその「時間がかかる/労力がかかる=コスト=忌避されるべきもの」というメンタリティに基づいて、今回の事件で言えば、「取り敢えず」被害者サイドにだけ当事者性を働かせて「済ませる」ような社会は、「倫理」の成熟には程遠く、恐らく一人一人の「生き辛さ」を増幅させていくだけのような気がする。

子ども、高齢者、障害者、生活困窮者、外国人、犯罪者…どういうふうにカテゴライズされようが、同じ社会の構成員である以上、「あの人は明日の私自身かもしれない」という当事者性を引き出すところからしか、根本的に「安心・安全」な社会はつくれないと思う。


http://blog.tatsuru.com/2019/05/27_1639.html