備忘録110(2020.05.28)

「インフラ=infrastructure」の対義語は「スーパー(スープラ)=superstructure」らしい。普通、インフラは「社会基盤」と訳されるけれども、原義的にはインフラ=下部構造、スープラ=上部構造。マルクスも用いた概念で、私も勉強不足で詳しくは知らないんだけれども、いろいろ総合すると、インフラ=「実体があってsolidなもの」、スープラ=「実体がない/あっても掴みにくい/変化しやすいliquidなもの」というイメージに落ち着きました

で、今回のコロナ禍で感じたことの一つが、「公的サービスとしての障害者福祉や介護って、やっぱりインフラ(社会基盤)なんだなぁ」ということ。

「それが無いと困る人が大勢いる」=インフラとして社会的にも認知されているから、障害福祉サービス事業所は基本的に休業要請の対象にはならなかったし、生活介護(障害者版デイサービス)なんか、臨時的な取扱いとして、「自宅(訪問)支援」や「電話による相談対応」を「生活介護(通所)サービスを提供したものとみなす」という救済?措置まで設けられたほど。

そうした状況に置かれて、改めて「あ、そう言えばインフラだったのね、うちらの仕事は。ちょっと忘れかけてたけど…」てなもんです。

いや、世間一般的には、コロナ禍云々にかかわらず、そもそも社会保障費で回っている=制度化されている時点で「そりゃ、インフラに決まってんでしょ(今更何を仰っているの?)」という認識なんでしょうけど、「制度化以前」の障害者福祉や介護って、一部の当事者や有志に支えられたある種の「スープラ(思想・概念・イデオロギー)」的な要素が強かった思うんですね。

支援やケアがソリッドなもの(手堅いもの)として社会的に定着していたわけではなく、家族や一部のボランティアや篤志家?によって何とかやりくりしていたリキッドなもの(それを取り巻く状況が流動的で常に存続の危機に瀕しているもの)だった。

それを、私なんかには想像もつかないような先人達の血と汗と涙によって「インフラ」に「した」んですよね…。でも私と同世代か、それより若い世代になってくると、地域差もあるかもしれないけれど、大抵は障害者福祉や介護が「最初から」インフラとして認知されている状況下でこの業界に関わるようになる。

すると、既にインフラ化した障害者福祉・介護の仕事=ルーティン化した仕事→物足りない→何か「+α」的なことをクリエイトしたい!という動機でこの業界に入ってくる人たちが常に一定数は存在するようになってくる。

(※もちろん、必ずしもインフラ化=ルーティン化ではないし、そもそもルーティン=ネガティブなものと決めてかかる態度自体にも違和感はある。支援・介護…というか「ケア」というのはもっともっと奥深い、根深いものなんだけれども、表層的にはインフラ=ルーティン=単純で退屈に見えないこともない。)

仮にこの「+α的なこと」を、まだクリエイトされていない「未成形のもの」「ケア(支援・介護~仕事の基礎)の“上”に成り立つ何やら高尚チックなもの」という意味で「スープラ」と考えるなら、先人たちの「障害者福祉・介護をスープラからインフラにするぞ!(カタチになっていないものをカタチにするぞ!=制度によって保障されていないものを保障させるぞ!)」とは真逆の、「障害者福祉・介護をインフラからスープラにするぞ!(制度による保障でカタチが定まってしまった硬直状態から脱却するぞ!)」みたいなモチベーションが現在は成立していることになる。

私自身も、いつの頃からか、もろにこの「スープラ志向」で突っ走ってきたクチだと思う。だからこそ、今回のコロナ禍が契機となって「あっ、そう言えばうちらの仕事って(世間的には)インフラやったんやな…」と「再確認」させられた、みたいなところがある。

しかし、である。「スープラ志向」によって、某かの新しい取り組みをクリエイトしたとして、結局のところ、それが「現場(支援やケアの現場+人々の日常生活の現場)」に何らかのカタチをもって根付かない限りは、ただの机上の空論、観念の遊戯みたいなもので終わってしまう。つまり、いかに「スープラ志向」で意識高い系?を気取ってみたところで、自分の取り組みに意味を持たせるためには、その取り組みに実体を持たせる=インフラ化することを目指さざるを得ない。

考えてみれば単純で、現状のスタンダードに疑問を持つ→新しい取り組みを起こす→それを新しいスタンダードにする→その新しいスタンダードに疑問を持つ人が出てくる→更に新しい取り組みが起こる→更に新しいスタンダードが生まれる→…(以下、繰り返し)

保守→革新→保守→革新→保守→…みたいな輪廻からは抜け出せないし、別に無理して抜け出す必要もない。「スープラ志向」で仕事をしたければ、①「保守(インフラ)→革新(スープラ)」の過程に身を置くか、②「革新(スープラ)→保守(インフラ)」の過程に身を置くか、あるいは③両方の過程に当事者として関わるか、恐らくこの①~③しか選択肢はないし、①~③のどれを採っても大変で、でもきっとその大変さに見合う手応えややりがいはある。

ただ、それを8時間/日(40時間/週)の「労働」基準の範囲でやれるかどうかは、業界によっても、個々の職場によっても、大きく環境が異なるだろうし、ここでも「労働(ライフ=ワークバランスの“ワーク”)」と「仕事(ライフワークの“ワーク”)」の狭間で葛藤を余儀なくされる人は少なくないだろう。うちの職場にもそういう若手・中堅スタッフをちらほら見かけるし、私自身もこの辺の葛藤で日々ブレまくりなのであります。

そして、コロナ禍を含めた災害時=「有事」の時ほど、福祉の現場には「インフラ」としての機能が求められることは先述の通り再確認済みで疑いようもなく(欠かせない社会基盤として認知されているってことで、それ自体は決してネガティブなことではないんだけど…)、「現場を回すことが最優先」的空気が「平時以上に」現場を包み込む。

私は、そんな空気に時には意気消沈しつつも、虎視眈々と「①保守→革新(既存のインフラをじっくり吟味して課題・問題点をスープラとして抽出する)」「②革新→保守(抽出したスープラを新しいインフラとして実体化する)」に取り組む機会を窺う、地に足の着いた?粘着質系「スープラ志向」スタッフでありたいと思うし、そういう同志?がいたら、何とかしてお互いに支え合いたいという思いを新たにするのでした。