備忘録30(2017.10.29)

いまだに何の迷いもなく、自公政権のための集票に徹する創価学会員の方々に伺いたいことがあります。あなた方にとって「信仰」とは何なのでしょうか?

公明党の議員、学会幹部、池田大作日蓮、釈迦の「言葉」を無批判に、何の疑いも差し挟まず、自分自身の思考を一切介在させず、ただ一心に受け入れることが「信仰」なのでしょうか?

「依法不依人(法に依りて人に依らざれ)」という経文は、ある特定の人、そしてその人による「仏法」に対する見解・言説に依拠することを戒める言葉ではありませんでしたか?

言い換えれば、「法」=「信仰の対象」と「自分自身」との間に「余人(の言説)」を差し挟んではいけない。「法」に対しては、あくまでもあなた自身が「直接」向き合いなさいということではないのでしょうか?

しかし、そもそもその「法」とて、結局は「経文」=「釈迦(ある特定の人)の言葉」という形を通じてしか私たちは認識することができません。

したがって、「法」と直接向き合うというのは、現に「言葉」としてアウトプットされている「経文=テキスト」を、自分自身の生き方/死に方を通じて「読む」こと、いわゆる「身読」ではないでしょうか?

そして「経文」を「身読」するためには、そのテキストをただ鵜呑みにするのではなく、自分自身が生きていく上での最も重要な「物差し」として位置付ける必要があると思うのです。

一般的にも、テキストの一言一句を「無批判に受け入れる」ことを「読む」とは言わないでしょう。テキストの意味を、それまでの自分自身の経験の総体(様々な人やモノや現象との出会い、そしてそこから得た知見、感覚…その全てで構成されている「今の自分」)と照らし合わせ、吟味し、某かの結論を導き、その結論に基づいて行動すること。これが「(身で)読む」ということではないでしょうか。

自分の考えや振る舞い、そしてそれらを積み重ねた生き方/死に方が「妥当」であるのかどうかを「測る」=「読む」時に用いる最も根本的な「物差し」=「テキスト」こそが、「法」であり「信仰の対象」だと思うのです。

だからこそ、私たちは、阿弥陀仏とか観世音菩薩とか、イメージを表象する「偶像」を拝むのではなく、「南無妙法蓮華経」=「私は法華経(という「法」を言葉として表したテキスト)に帰依します(依拠して生きます)」と唱えるわけでしょう。そういう生き方を身を以て提示されたのが日蓮という人だったわけでしょう?

つまり「信仰」というのは、何かを無批判に、何の疑いも差し挟まず信じるという「受動的な」ものではなく、自分にとっての最も大切な「物差し」を自らが決め、その「物差し」を用いて考え、振る舞い、生き、死ぬという、かなり「能動的な」営みのことではないでしょうか?

そこには「我見」=「法に対する自分勝手な解釈」などという筋違いな概念は存在しません。「法」を用いて「自分自身の生き方/死に方を自分自身で組み立てる」わけですから、「主観的」になるのは当然でしょう。

「我見」という概念を作り出し、ある特定の人や組織によって決められた「法」の解釈=教義・教理だけが「唯一正しい」と主張することは、人の心身と生き方/死に方を縛り付ける、ただの教条主義(ドグマティズム)であって、「信仰」とは正反対のものであると言っても過言ではないと思います。

仏教の経典は全て「如是我聞(是くの如く我聞けり)」という言葉から始まるそうですが、それは「釈迦(師匠)の説いた教えを弟子が人々に伝える」という形式を採っているためだと考えられます。

しかし、ここで「おや?」と思うのは、どうして仏教経典はそのような形式を採用したのか?あるいは、同じ伝聞方式にせよ、「弟子」は何故ストレートに「釈尊はこのように仰った」ではなく、「私はこのように聞いた」というふうに、「私」を主語にして語り始めるのか?ということです。

釈尊はこのように仰った」という語り方には、「釈尊のお言葉を一字一句違わず伝える」から「そのお言葉通りにしなさい」という含意がある。これでは「釈迦の言葉」が人々を縛ることになってしまう。人々の心身から自由を奪い、一人一人が自分らしく生きることを妨げてしまう。それは、「宿業」という概念やそれに基づくカースト身分制度)によって人々の心身を束縛するバラモン教への「抗い」としてスタートした仏教、そして釈迦の本意ではない。

だからこそ、「弟子」は「私」を主語にして語り始めたのではないでしょうか?「私は(師匠の言葉を)このように聞いた(≒理解した/受け止めた)」--つまり、これから私が伝える内容には「(私の)聞き間違い」や「(私の)誤解」が混じっているかもしれませんが…と前置きをすることで、話の「聞き手」に対してもまた「聞き間違い」や「誤解」の余地を与えているのではないかと思うのです。

そうすることで聞き手(信仰者)の「主観的な受け止め方」を認め、ひいては「聞き間違い」や「誤解」の数に比例した「多様で能動的な生き方」を引き出そうとしている。人々が釈迦の教えを「よすが」としつつも、それにがんじがらめに縛られるのではなく、逆にそれを用いて、自由に、自分らしく生死を全うできるようにする--「信仰」という営みに対するそうした姿勢が、「如是我聞」という語り方となってアウトプットされたもの。それが仏教経典なのではないでしょうか。

翻って、今の創価学会の在り方ははどうなのでしょう?「御金言」「師匠からの激励」「幹部指導」の名の下に、会員の心身を縛り付けてはいませんか?組織の決定に対する会員の異議申し立てや、幹部の意に反する会員の言動を、オートマチックに「我見」や「謗法」というラベルで攻撃し、封じ込めていませんか?

明らかに戦前回帰かそれ以上の国権主義体制を目指し、一時しのぎのバラマキ政策を除けば、「自己責任」の名の下に「病人と貧乏人」を痛め付ける政策ばかりを打ち出し続ける今の自民党。そしてそれに追随し続ける公明党に対して、本当に「信仰」に基づいて支援をしているのでしょうか?

これは決して「蚊帳の外」からの誹謗中傷などではありません。かつて世間から「病人と貧乏人の集まり」と揶揄されながらも、むしろそれこそが「信仰者の組織」としての誇るべき姿だという矜持に満ちていた創価学会。私もまた、生まれた時から、そんな「創価の庭」でたくさんの会員さんに育ててもらいました。形式だけの「葬式仏教」ではなく、「今、そしてこれからをどう生きるか--そこに寄り添う日蓮仏法」というものを教えてもらいました。

そんな学会員の端くれとして、一人の信仰者として、「当事者」であるからこその疑問や憤りを言葉にしました。仏法に対する浅薄な理解や認識、誤った憶測も含まれていることでしょう。「我見」「謗法」「観念の遊戯」と言われても仕方がないのかもしれません。

しかし、「信仰とは何か?」「学会は/学会員は信仰に依拠して公明党を支援/監視できているだろうか?」「学会という組織の在り方は本当にこのままでいいのだろうか?」…こうした根本的な「問いかけ」を止めてしまっては、信仰に基づく個人としての自立も、組織としての自律も機能不全に陥ってしまうのではありませんか?

私たちは、世界の、日本社会の、学会という組織の、信仰の、あらゆる次元の「当事者」としてどのように振る舞うべきか。今一度、そして常々、今自分が身を置く場所で向き合う必要があると思います。「当詣道場(当に道場に詣りて…)」とはそういうことでしょう。