備忘録10(2016.07.30)

この質問に対する「ベストアンサー」は何度読んでも秀逸。5年も前の記事やけど、是非皆さんにも読んでいただきたいです。

相模原の事件に関する多くのマスコミの報道で「危うい」と感じたのは、容疑者が大島衆院議長へ宛てた手紙の文面を「公表するだけ」で、そこに認められた思想が「いかに危険なものであるか/何故危険なのか」という最も大切な「カウンターパート」の主張がきちんとなされていないところ。

それこそ「中立」を履き違えてるよ。「育成会」(主に知的障害者を子に持つの親の会)の声明を報じるぐらいじゃ足りないんです。もちろん、DPI(障害当事者団体)からの声明も含めて、それらが間髪入れず出されることは絶対に必要だったと思います。でももし、それらの声明を報じるところで報道が止まってしまったらアウトです。「そりゃ『家族』や『当事者自身』は障害当事者の側に立つわな」で終わってしまうんです。多分。

そんな報道の仕方じゃあ「優生思想」を不用意に拡散するばかりか、いわゆる「健常者」と呼ばれている一般の人たちが潜在的に持っている差別意識を「顕在化」させる引き金にさえなってしまいかねない。いや、もうなってるか。

「優生思想」と戦うためには、マスコミレベルでも、個人レベルでも、この「ベストアンサー」並みの「ロジック」できちんと「反撃」しないといけない…

と、思う一方で、ヘイトスピーチヘイトクライムを支持したり、擁護したり、そういう類いの言説に共感する人たちって、実は「ロジック」や「理屈」や「理性」を最も軽視してる人たちでもあるんですよね。いわゆる「反知性主義」ってやつですか?

そういう「自分の頭で丁寧に考える」ことを「放棄」した連中には、いくら言葉を尽くしても永久に通じないのかもしれないと思うと、気持ちがかなり絶望に傾いてしまうんですけど、諦めちゃいけないんですよね、多分。

「重症心身障害者」と呼ばれる、それこそ言葉で意思疎通をしたり、口からご飯を食べたり、口と鼻で呼吸をしたりすること自体が「当たり前ではない」人たちと毎日向き合うことを「生業」にしている一個人として、この事件とそのバックグラウンドに横たわる思想について、「何を語ればいいのか」悩んだり、そもそも、おいそれと「語ること自体」を躊躇したりもしましたが、やっぱりね、もう「沈黙は金」なんて澄ましてる場合じゃないんですよ、この国では。

被害者の実名報道のこととか、インタビュー受けてた施設利用者の親の発言とか、いろいろ気になる点はあるのですが…これからまた少しずつでも、きちんと考えて、自分の言葉にしてアウトプットしていきたいと思います。

 

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