備忘録31(2017.12.22)

シチュエーションとしては想像しにくいですが、「まともな社会」と「正しい社会」、どっちで暮らしたいですか?と尋ねられて「正しい社会で暮らしたい」と答える人(あんまりいないか…)とは多分友達になれないなと感じる今日この頃です。

何というか、common senseとcorrectnessの違いなんでしょうか?「正しさ」から漂ってくるあの「胡散臭さ」とか「押し付け感」がしんどいのかなぁ。

「正しい」というのは、ある物事がその「あるべき姿に合致している」状態を指します。ということは、ある物事が「正しいかどうか」を判定するためには、前提としてその「あるべき姿」が定められている必要がある。では、その「あるべき姿」はどうやって決まるのか?

原始的な社会では、天とか神とか「人知を超えた何か」がそれを決めるという建前だったんでしょうけれど、結局その決定を「人間レベルでも分かる『言葉』に落とし込んで伝えることのできる特定の人間」=「メッセンジャー」が必要になります。

そして、本来なら天とか神とかの決定を人々に「伝える」ことが役割だったこのメッセンジャーが、次第に天とか神とかの決定を「代行する人」=「エージェント」に変化していく。これが「権力」や「権威」の始まりじゃないですかね、多分。

「権」という漢字は「分銅で物の重さを量る」ところから「事の重要性を判断する 」→「決定を下す」→「支配する」という意味に転じていったそうですが、一方で「仮の」とか「臨時の」という意味もあります。これは、本来なら「天や神にしか備わっていない力=何が正しいかを決める力」を、「人間が臨時代行する」からとも考えられます。

ともあれ、あくまでも天とか神とかの「代理人」という建前で「何が正しいか」を決めることが許されるようになった権力者や権威者は、当然のことながら、今度はその力を私物化し、出来るだけ保持しようとします。だって人間だもの。ここから社会の「タテ関係」に基づく「正しさ」の「デザイン化」が始まったのではないかと思います。

「正しいことをしたければ偉くなれ」--言わずと知れた和久さん(いかりや長介)の名台詞がそのことをよく表していると思いますが、これ、もう少し正確に言うと「自分がしたい/したことを『正しいこと』にしたければ偉くなれ」ってことですよね、多分。つまり、権力や権威を持てば、自分の都合に合わせて「正しさ」を設計する=デザインすることができると和久さんは仰っているわけですね。

例えば、歴代中国王朝では「前王朝の歴史」を「正史」として編纂させました。文字通り「正しい/正式な歴史書」という意味。それは誰にとっての「正しい歴史」なのか。もちろんその正史が編纂された時点における「現王朝(政権)にとって」です。「現政権」が「いかに天意に則った(=正しい)手続きを経て前政権から権力を引き継ぐに至ったか」という記録を後世に遺すためのものだから。

「前政権」があまりにも暴虐だったために現政権の太祖(最初の皇帝になる人物)がそれを成敗して下さった=「放伐」とか、前政権が自身の愚かさや無能さを悟り、賢明であらせられた現政権の太祖に政権を委ねた=「禅譲」とか…「事実かどうか」は重要ではなくて、「権力継承の正統性をイメージ付ける物語になるかどうか」という「機能」が正史には求められていたんですね。日本風?に言えばまさしく「勝てば官軍」方式で「正しさ」がデザインされていく分かりやすい例です。

もちろん歴史だけではありません。健常者と障害者を区別するために用いられる「健常=正常の定義」は誰が決めているのか?学校の試験問題の「正解」は誰が決めているのか?そしてその「正常」とか「正解」は誰のためにどんな「機能」を期待されているのか?

つまり、権力や権威というものが社会に生まれてこのかた、どうも「正しさ」というのは、社会の「タテ関係」において「上」にいる人(たち)が、その「上」という立ち位置をキープできるように機能する設計が施されているっぽいんですね。そういう意味で「正しさ」は「デザイン」だと思うのです。