備忘録16(2016.11.15)

高橋まつりさんの生前のツイートから。

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まつり ‏@matsuririri 2015年11月3日
「生きるために働いているのか、働くために生きているのか分からなくなってからが人生。」
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「…分からなくなったら人生終わり」ではなくて、「…分からなくなってからが人生」と呟いた高橋さん。

「生活の糧を得て食べていく」という意味での「生きる」。「一人の人間としての生を全うする」という意味での「生きる」。

「賃金労働に従事する」という意味での「働く」。「生涯を通じて何かに取り組む」という意味での「働く」(「ワークライフバランス」の「ワーク」と「ライフワーク」の「ワーク」)。

単純な言葉ほどそれが持つニュアンスは重層的で、一つ一つのニュアンスと向き合うことはとても根気の要る作業になる。

「生きる」とは?「働く」とは?その言葉を自身の実生活に落とし込んでいく中で、様々なニュアンスが渾然一体となっていく。その一種のカオス状態と正面切って向き合う時(向き合わざるを得なくなった時)が人生の「正念場」であり「本番」の幕開け…

…高橋さんのツイートをそう解釈することが許されるとしたら、あの若さで、それ程に深い知性と人間的な逞しさを兼ね備えながら、自らの命を絶たねばならなかった彼女の置かれた状況というのは、本当に想像を絶する。

こうして日本社会は、また一人の掛け替えのない「財産」を失ったことになる。

いじめの類や過労などによる自殺、不登校や引きこもりという生き方、障害者や介護が必要な高齢者などへの「社会的弱者」という烙印…

そうした様々な「生き辛さ」の原因を、最終的に「個人」に帰結させようとする社会の空気は、その「個人」自体が、実際には様々な人間や自然やモノとの「関係性」の上に成立していることを覆い隠し、「有り難み」よりも「当たり前」を前景化し、建前としては「個人主義」を叫びながら、結局はこれでもかと「個人」を蔑ろにしていく。

本人の自覚の有無はともかく、「生き辛さ」と対峙しながら、それでも丁寧に、必死に、精一杯生きている人こそが、この社会が抱える「生き辛さ」の要素を一つ一つ「生き甲斐」の要素に転じることのできる貴重な「人的資源」なんだろうと思う。

そういう視点から「一億総活躍社会」を捉え直してみてはいかがか。「いかがか」というか、そういうふうに捉え直して、もう一回制度設計からやり直せ。

そして、歯牙無い一個人としての私は、その「人的資源の証明」にコツコツ精を出すしかない。