備忘録5(2016.03.20)

「自分が将来どうなりたいか」について必死に悩み、「自分の将来像をはっきり描いている人」を羨ましく思う人は多いのかもしれない。

では、その将来の自分が「どんな社会に身を置きたいか」を必死に考え、「自分が身を置きたい将来の社会のイメージを具体的に持っている人」を羨む人はどれぐらいいるだろうか。

どんな「将来の自分」を思い描こうが、その自分が今この瞬間も踏みしめている「大地」が割れ裂けてしまっては何の意味もない。

「自分が身を置く社会」をわざわざ視界から消し去って「将来の自分の単体像」を描く人間は、いくら社会的に「成功」を収めようが、「安定した生活」を手に入れようが、「社会人」としては無条件に「アホ」にカテゴライズされる。

「汝須く一身の安堵を思はば先ず四表の静謐を祷らん者か」という鎌倉時代の先人の言葉は、「自分=神聖不可侵たる“わたし”個人」という神話を盲信する現代の「アホ」の耳にこそ、タコができるぐらい言い聞かせるために遺されているのではないか。