備忘録6(2016.03.21)

予想されるご批判
①社会派ぶってんじゃねーよ
②「社会のことを考えろ」って強要すんじゃねーよ

予定しているご回答
①申し訳ございません。現在、本物の?「社会派」になる力量がなく、社会派の真似事をさせていただいております。「ぶる」ことで不快感を与えてしまうのは本意ではありませんので、少しでも本物に近付けるよう鋭意努力して参ります。

②申し訳ございません。「社会」の定義をはっきりさせないままにいろいろ書き殴ってしまいました。「社会」と申しましても、そんな大袈裟なものではございません。

「三人寄らば文殊の知恵」と申しますが、人間が2、3人も集まれば、それはそれで一つの「社会」というふうに考えていただければと思います。

家庭、学校、職場、友人・知人、恋人・愛人…あなたとあなた以外の誰かが某かの関係を有するとき、それはもう「社会」と呼んで差し支えないかと思われます。

「社会のことを考えろ」というのは、「あなた個人の生が全く独立して存在しているのではなく、数多の関係性の上に成立していることに思いを致してみてはいかがですか?」というご提案でございました。

「自分=他の何者でもないあなた個人」ではなく、「自分=これまであなたが出会ってきた人・モノ・現象など全ての総体としてのあなたという人間」ではありませんか?という問いかけでございました。

テレビで殺人事件のニュースを目にした時、「世の中物騒になったなぁ。(まぁ、おれには関係ないやろうけど)」と「他人事」を貫き通すのか、「ああ、一歩間違ったらおれも人を殺してまうかもしれんのやなぁ…」とどこかに「当事者意識」を残しておくのかの違いでしょうか。

「自分」の範囲を「わたし個人」から「外」=「わたしを取り巻く人・モノ・現象」に広げるというか、逆に「わたしを取り巻く人・モノ・現象」を「自分」の「内」に引き受けるというか。

そうすることで「自分探し」的な不毛なことで悩む必要がなくなるのではありませんか?

「本当の自分」などというものは初めからどこにも無くて、様々な人・モノ・現象との関わりを経て醸成された「今の自分」が取り敢えずの「全て」だし「結果」なんだろう、そしてこれから先への「通過点」なんだろうと思えれば、少しは楽にならないでしょうか?

「社会のことを考える」というのは、「純度100%の“わたし個人”なんてそもそも存在しないんだな」と肩の荷を一つ下ろすところから始まる営みのことなのではないでしょうか。

そういうご提案をさせていただいた次第です。