備忘録75(2019.05.28)

【障害者福祉という生業(ナリワイ)②】

「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずといへり」とは言え、実際の社会における人間関係には「上下」が確かに存在している。というか、人間集団が単なる「群れ」ではなく、「組織」や「社会」として機能するためには、一定の「上下関係」や「優位性」の存在を前提にしないとお話にならない。

それは障害者福祉の「職場」も例外ではなく、スタッフ間に「上下関係」が存在するから、指揮命令系統や責任の所在が明らかになることなどによって「組織」が機能しているし、そもそも【スタッフ-利用者間】の関係に「スタッフの優位性」が存在するから、「支援」という「仕事」が成り立っている。

この、利用者に対する「スタッフの優位性」は、もちろん「人として優れている/劣っている」みたいなヘイトまがいのものではなく、ICF国際生活機能分類)で言うところの「(心身機能・構造の)支障」や「(活動の)制限」や「(参加の)制約」などを量的・質的に比較した時に生じる相対的なものだと思う。

ピアサポート」という「支援」の在り方もあるけれども、たとえ「ピア」であっても、個々の生活上の「支障・制限・制約」の程度や性質が「全く同じ」なんてことはあり得ないし、「経験値」などによる一定の優位性がそこにあるから、「サポート」として成り立つのではなかろうか。

「支援」と言わず、単に「困っている人を助ける」という場面で考えてみても、そこには「助ける」側が「助けられる」側に対して何らかの優位性を持っているから、「助ける」ことができるということに異論はないかと思う。

ただ、一般的に「困っている人を助ける」場面での「助ける/助けられる」の関係や、その時「助ける」側が有している優位性は、基本的に「一時的/流動的なもの」だろう。自分が「助ける側」の時もあれば、「助けられる側」の時もある。それぞれの場面によって、優位性が自身の側にあったり、相手側にあったりする。人間相互の「助け合い」を担保しているものの一つが、この「優位性が流動的であること」だろう。

ところが、障害者福祉はじめ、いわゆる「福祉系サービス」における「利用者に対するスタッフ(支援者)の優位性」は、実際のところ、果たして「流動的」だろうか?というか、それが仮に「流動的」だとしたら、「支援という生業(ナリワイ)」は成立するのだろうか?

答えは多分「NO」だろう。「利用者に対するスタッフの優位性」が一定程度「変化せず」、【支援者-被支援者】という関係性が一定程度「固定化」されていて、そうした状態・状況が一定程度「継続する」ことが見込まれるからこそ、「支援者」や「サービス」の存在(安定した供給)に必要性が認められ、そこに社会保障費が投入される(もちろん、その「システム」が確立するまでの道のりは、決してこのようにさらりと一言で流せるものではないけれども…)。

これが、私が今の「生業(ナリワイ)」で十分に食べていけていることの大きな背景の一つ。誤魔化しの利かない現実の一側面ではないかと思っている。

ここで私が恐れるのは、【スタッフ-利用者間】における「スタッフの優位性」が一定程度固定化されることによって、両者の関係は、「助け合い」に象徴される流動的な「give & take」式の関係ではなく、いわばスタッフの「give & give」、利用者の「take & take」が常態化した関係になっていく可能性が高いのではないか?ということ。

そして、固定化された優位性に基づく関係は、その「濫用」を招くリスクを高める。この「優位性の濫用」を「虐待」と呼ぶことになっている。親子間における「親の優位性」、労使間における「使用者の優位性」も同じ理屈で、「優位な立場」を保持している側がそれを濫用すると「虐待」になる。高齢者の場合は親子の優位性が逆転するのかもしれないけど…。

さらに、【スタッフ-利用者間】の「give & give/take & take」の関係を、社会全体レベルに敷衍すると、社会保障費を負担する納税者/保険料納付者による「give & give」、社会保障費によって生活の根幹が支えられている高齢者・障害者・児童・生活困窮者などの「take & take」というような構図が出来上がり、これが、いわゆる「社会的弱者」と呼ばれる人たちに対する「コスト視(「社会のお荷物」的認識)」へと繋がっていく。その最悪な形での顕在化の一つが「相模原事件」なのだと思う。

私の今の「生業(ナリワイ)」は、そういうとんでもない「危うさ」を構造的に抱えている気がする。しかし一方で、私はその「生業(ナリワイ)」によって生計を立てているという動かし難い現実があり、そして、実際にその「生業(ナリワイ)」によって利用者の生活も成り立っている側面があることも、当然否定はできない。かといって、この「危うさ」を放置するわけにもいかず…。

ICFに照らせば、人間関係における優位性が「相対的なものであること」は説明できるかもしれない。「相対的」なのだから、理屈上は「優位性が流動的であること=諸条件によって変化するものであること」も織り込み済み…のはず。であれば、ICF分析に基づく支援やサービスは、本来、【支援者-被支援者】という関係の固定化をいかにして「最小限に食い止めるか」という視点で語られる必要があるのではないだろうか。

相手が高齢者であろうが障害者であろうが、いかにして「優位性の相互往来」を促進あるいは担保し、いかにして「give & take」な関係をそこかしこに成り立たせるか、そしてそれを個人レベルから社会レベルに敷衍していくか、という視点。

しかし、これを突き詰めていくと、障害者福祉という「仕事」は、実はそれが「生業(ナリワイ)」として成立する根拠(の一つ?)そのものを叩き壊すことをこそ、求められていることにならないか?という気さえしてくる。

「仕事と生業(ナリワイ)」

「支援(サービス)と福祉(振る舞い~生き方)」

…この辺りが上手いこと噛み合わない。何とも言えない違和感がむくむくと頭をもたげてきている。

つづく…(たぶん)