備忘録57(2018.07.10)

私はもう99%諦めています。やっぱり日本はもう一回、100万人単位で人が死んで滅びるという方法でしか、再起する術は無いと思っています。

でも一方で、諦めるのは「彼らの思うつぼ」ということも確信しているので、100%諦め切ることはないでしょう。

ただ、はっきり言って、ここ最近、仕事が手につきません。正確に言うと、仕事の中でも、あれこれ考えなくて済む「作業」しかできなくなりました。モチベーション的に。

私には、日々の「現場=ミクロ」も、「社会=マクロ」も、「同じ土俵」に見えてしまいます。渾然一体というか。だから、一見「現場=ミクロ」が「いつも通り」に見えたとしても、「社会=マクロ」が「おや?」「え?やばくない?」って見えてしまうと、もう自分の「土俵が汚された」と感じてしまって「現場=ミクロ」に対する集中力が低下してしまいます。

これは非難されても仕方がないことだと思います。「完全無欠の社会」なんてあり得ないわけだから、いくら社会のあちこちに欠陥が生じているからと言って、そんなことは日々の仕事を疎かにする理由にはならない…って。

でもね、無理なんです。私だって「完全無欠な社会」なんてあり得ないのは分かっているし、それを望んでいるわけでもありません。でもね、要は社会が抱えている欠陥の「程度」の問題なんです。

日本社会の「損壊」具合が、もうデッドラインを越えてしまっている気がしてしょうがないんです。ダメコン不可能としか思えないんです。

そういう絶望を抱えながら、一方で日々休まず出勤しているし、ご飯も食べるし、酒も飲むし、風呂も入るし、買い物もするし、テレビも観るし、本も読むし、音楽も聴くし、夜は寝るし、「日常らしきもの」を送ることができちゃってるんです。ありがたいことに。

でもそれはやっぱり「日常貯金」の切り崩し。いつ「残高ゼロ」になるとも知れない脆弱な資産です。今の「何気ない日常」は、過去の誰かたちと、今の誰かたちの途方もない労力や犠牲によって「辛くも」成立しているものであって、決して当たり前にあるものではありません。

私たちが享受している「日常」=「自由をはじめとする基本的人権がそれなりに定着していて、戦争をしていない平和な社会」はそれほど「脆い」んです、実は。だから絶えず市民の社会・政治参加を通じた「メンテナンス」=「権力の監視~社会情勢の注視~発見された問題点の改善」が必要です。

でも現在、日本社会のメンテナンスは致命的に滞っており、さらにはそこに付け込んで卑劣な攻撃を仕掛けてくる「彼ら」がいる。まずは「彼ら」を権力の座から退けること、そして「メンテナンス」を怠らない市民を一人でも多く増やすこと。

これしかありません。シンプル過ぎて不安ですが。なので、取り敢えず、「黙る」ことを諦めようと思います。

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