備忘録56(2018.07.06)

オウム真理教関連事件の死刑囚に対する「一斉の」死刑執行とその報道のされ方…これ、ほとんど公開処刑じゃないですか?リアルタイムで「執行手続き中」なんていう情報までが逐一流れてくるって…これまでの死刑執行報道からするとかなり違和感があるんですけど。

古代ローマの「パンと見世物」を彷彿とさせるおぞましさ(「パン」は無いけど)。「紀州ドンファン」然り、サッカーW杯関連報道然り。「見世物」の陰に隠れて、政府与党が何をしているのか、私たちが知らなければいけないのはそこだし、報道が私たちに知らせなければいけないのもそこでしょう。

死刑執行のタイミングを検討するのは法務省、最終的なゴーサインを出すのは法務大臣。つまり政府与党=国家権力が「今だ」と決めた。しかも「執行した(後)」ではなく「執行手続き中」という情報をメディアに流した。

「何故『今』なのか?」「何故『執行手続き中』を生リークする必要があったのか?」についても穿って考えないといけないぐらい、今の政権は不気味なんです。

 従来通り「死刑を執行しました」と事後的に粛々と公表だけすればいいものを、今回はわざわざ「これから死刑執行しますよ」という現在進行形でメディアにリークしている。

 「リアルタイムで大々的に報じられる」結果になることが分かっていてそれをやっている。つまり、少なくとも「死刑」が「見世物になり得る」と認識してるわけですよね、政府は。

死刑囚たちが犯した罪は決して許されないし、私個人は今のところ死刑制度廃止に賛成でもありません。でも、それとこれとは話が別。これは死刑制度の是非以前の問題だと思います。

どんな凶悪犯だろうと、死を以て罪を償わせる必要がある人物だろうと、人は人。その「人の死」を「見世物」として取り扱う政府とマスメディア、そしてその「人の死=見世物」に興じる国民の「異常さ」には、形容し難い恐怖を感じます。

「死なないためのルール」を前提にしているボクシングやプロレス観戦と、コロッセオで行われていた「ルール無用」の「剣闘」に熱狂することとは訳が違います。

人の「本能」のどこかでは、もしかしたら、その両者に相通じるものを感じるようになっているのかもしれません。しかし、「基本的人権」に依拠して、理性的に社会を維持していこうと決めたんだったら、やっぱり「人の死=見世物」という認識は「異常なもの」として分類し、明確に否定することが、取るべき振る舞い方なのだと思います。