備忘録19(2017.03.09)

「クソみたいな世の中」を現出するのは特定の「クソみたいな人間」ではない。

「クソ」はどんな人間でもその体内に持ち合わせているもの。問題なのは、「クソ」が排出された際、最終的にそれを「無害化する仕組み」が社会において「機能不全」に陥っていることだろう。

「成熟した」社会や組織では、誰がどのポジションに配置されたとしても、その構成員個人の資質や能力上の問題によってもたらされる被害が、社会や組織にとって「致命的なものにならないようにする」ためのシステムが「適切に機能している」はず。

そういう「クソを最終的に無害化するシステム」は「トイレ→下水道→下水処理場」でもいいし、「肥桶→肥溜め→有機肥料化」でもいい。きちんと機能させることさえできれば…

三権分立然り、言論の自由然り…ルールが決まっていて、必要な権利や権限が保障されていても、それが実効性を伴わなければ/実効性を持たせるような努力が払われなければ意味がない。

結局「クソは私を含めて誰でも出すもの → でもその出されたクソを放っておくと大変なことになる」という基本的な認識が、社会や組織の構成員間で共有されているかどうか。

そして、自分自身がクソを出す以上、「みんなのクソを適切に処理する仕組み」の構築や機能の維持に当たっては、自分自身も責任や役割の一端を担う必要があると個々の構成員が意識できるかどうか。

社会や組織の「成長」「進歩」「向上」を語る前に、もしもの時の全滅を避けるために「しんがり」を務めてくれるもの=「トイレや下水道や浄水場や肥溜め」について、もっと丁寧に思いを致したほうがいいのではないか。