備忘録111(2020.07.29)

そう、ALSに罹患していた女性の安楽死事件然り、(この事件を受けての)維新のドンによる「尊厳死について(推進する方向で)真正面から議論しよう」ツイート然り、RA●WI●P●の彼の「ザッツ優生思想」ツイート然り…2016年7月26日のあの出来事は、「風化」どころか「現在進行形」なんだということを思い知らされる。

最近になって?優生思想的な言説が息を吹き返してきた?ことと、新自由主義ネオリベラリズム)的価値観が社会全体を覆いつつある(というか、多くの人々の個々の価値観=内面を侵蝕しつつある)こととが相関関係にあるような気がしてならない。というか、多分そうなんだろう。

教育や学問にしろ、医療や福祉にしろ、さらには個々人の存在自体にしろ、「有用性(役に立つ/立たない)」の判定基準が「お金を稼げるかどうか」一択になりつつある…というか、なってしまった、なって長いこと経つ?

「生きることの価値」=「市場価値(労働力としての価値/資本に寄与することのできる度合い)」一択になりつつある…というか、なってしまった、なって長いこと経つ?

この等式によって「社会的弱者(市場価値がない=生きる価値がない)」にカテゴライズされてしまった人たちが、「それでも何とか死なずに生きていられるようにする仕事」=「福祉の仕事」になってしまっていないか?

今の社会の在り方という「土俵」はそのままに、その「土俵の上で」という条件付きで、「何とか生きていられる」よう支援(サポート)する…それって、あくまで「対症療法」ですよね?

もちろん、その「対症療法」(いわゆる既存の福祉的な支援・サービス)にすらアクセスできていない=潜在化してしまっている当事者も大勢いるはずで、「対症療法」も社会インフラとして不可欠であることは言わずもがなですけど、それでも問いかける必要があると思う。福祉の仕事って、そこ(「対症療法」)で自己完結しちゃっていいんだろうか?

「対症療法」に加えて、上のような等式で「生きることの価値」を勝手に押し付けられるような「土俵」そのものを作り替える「根本治療」までを、自身の仕事の射程圏内に入れることができるかどうか。いわゆる「福祉」関係者にはそこが問われることになる/既に問われている気がしています。

「土俵を作り替える」仕事は、もちろん福祉分野だけでは為し得ませんけれども、今の社会で如何ともしがたい「生きづらさ」を抱える人たちの一番傍に身を置いている、いわば「生きづらさと対峙する最前線」を担っているのが私たち福祉関係者なのだとしたら、私たちが果たす役割は私たちが思っている以上に大きいのではないかと思っています。

私たちは、もっとラディカルになっていい。暴動とか武力革命を起こすとか、そういう意味じゃなくて(それはそれで意味はあるんだろうけど)、もっと社会や人間の「根っこ」「そもそも」部分に切り込むという意味で。

「生きづらさ」を「障害」と呼ぶとしたら、「この世に『健常者』なんてそもそも存在しない」=「みんな(私もあなたも)障害者でしょ?」--それぐらいの、ちゃぶ台返しみたいな認識からスタートしたっていいんじゃない?


【補記】
https://www.jiji.com/sp/article?k=2020072900915&g=pol

https://twitter.com/oishiakiko/status/1286511690943627270?s=19

尊厳死安楽死の推進→医療費と社会保障費のカット=税金の節約(コストカット)に成功!→小さな政府万歳!選択と集中ネオリベ万歳!

…的な思考回路が見え透き過ぎてキモい。


https://twitter.com/NatsukiYasuda/status/1286856431182819329?s=19

https://mainichi.jp/articles/20200727/k00/00m/040/128000c.amp?__twitter_impression=true

http://blog.tatsuru.com/2020/06/12_1352.html

https://toroo4ever.blogspot.com/2020/04/blog-post.html?m=1