備忘録68(2019.02.02)

「このままでいいのか?」という問いかけは、実際に何か具体的な「課題や危機に直面している」ことに起因するのか、それとも現状に対する単なる「マンネリ」に起因するのか。

最初、前者はシビアな「危機感」のこと、後者はエモーショナルな「嫌悪感」とか「閉塞感」、あるいは「食傷感(飽き)」のことだと区別して考えていました。そして、後者は「気の持ちようでどうとでもなるわ」と軽視すらしていました。

けれども「嫌悪」というのは、それを受け入れることが苦痛だという「精神面での危機感」から起こる拒絶反応でしょうし、「閉塞感」だって、文字通り「このままだと(精神的に)窒息する=死ぬ」という「危機感」から生じるものだと考えられます。「食傷」も放っておくと心身の不調をきたしてしまいます。

つまり「マンネリ」に起因する「このままでいいのか」もまた、自分の心身から発せられる大事な「危険サイン」なんだというふうに考え方を改めました。バカにできませんね、マンネリ。

そして、マンネリ=mannerismって、マナー=mannerに由来する言葉だったんですね。manner=「様式」や「型」、それが体系化された「作法」という意味ですが、これがマンネリ=mannerismとなると、思考・行動・表現などの様式や型が固定化される、定型化されることによって新鮮味や独創性が失われるという意味になります。

なので、マンネリって、特段人の「内面」に限定された「気分」の問題だけではなかったんですね。何かの在り方がパターン化されるという意味では、例えば、社会や組織といった人間集団のシステムにも当てはめられる概念だったんだと、今更ながら気付きました。

でも、何でまた「マンネリ」が「このままでいいのか」という「危機感」と結び付くんだろう。マンネリが起きる要件である「定型化」って、ある意味では「安定化」だと思うんですね。想定外の変化が起きない、継続的な安定性。それって、何なら「安心感」に繋がってもいいくらいなのに、何で真逆の「危機感」を覚えることもあるんだろうと…。

日常のことを考えても、多くの人が「安定した生活」を求めて苦労してるわけやし。そう考えると、マンネリ(変化しないこと)の何がいけないの?って感じてしまいます。

しかし一方で、「変化しないこと」が「命取りになる」ケースを、私たちが毎日実体験しているのも事実だと思うんです。私たちの身体をつくっている細胞は、日々細胞分裂によって生まれ変わっています。もし、細胞たちが分裂を止めたら=変化を止めたらどうなるか。それは「安定」どころか、その細胞たちから成り立っている生命体の「死」を意味します。確かに【これ以上変化しない=完成形=死】って、何やらアートの題材になりそうなぐらいイメージしやすいですしね。

この「変化しない」ことに対して「命の危機」を感じることと、「変化しないこと」=「安定」を求めることとは、果たして矛盾するのでしょうか。

考えてみると、原子レベルで起きる物質の「化学変化」って、異物同士が巡り合った時や大きな物理環境の変化が起きた時=物質としての安定が損なわれそうになった時に、その化学反応を通じて物質としての「安定を取り戻すため」に起こるんですよね。

ということは、私たちの身体で起こる細胞分裂もそれと同じ理屈なんですね。老いた細胞から新しい細胞へと生まれ変わり続ける=変化し続けることで、全体としての「わたし(生命体)」の安定を維持する。「変化しない」=「安定」とは必ずしも言えないと…。

何かを変化させることで、また別の何かの安定を図る…。どこかの老舗店主の「変わり続けることで伝統を守る」みたいな語り口と似ていますが、マンネリに起因する危機感て、もしかしてそういうことなんですかね。

固定化・定型化された思考や行動やシステムは、一見とても安定しているようでいて、実は内外の環境変化に対してものすごく脆弱であるということを、私たちは本能的に知っていて、それがマンネリに由来する危機感となって立ち現れてくる…みたいな。

そして、その危険を知らせるサインに従って、思考や行動やシステムを改変することで、「わたし」という個人や、「わたしたち」という集団(組織・社会)自体の生存を守る…みたいな。

「このままでいいのか?」

この問いかけは、時代や環境といった外的な変化、個人や組織や社会の内的な劣化や腐敗の兆候を、私たちのサバイバル本能のセンサーが正常に感知しているからこそ生まれるものなのかもしれません。

ここから、実際に危機を回避するための知恵や行動が上手く起動するかどうかがさらに重要な気がしますが、その「スイッチ」が一体どこにあるのか…それはまだまだ模索中な私…なのでした。