備忘録67(2019.02.01)

「疑心暗鬼」は「一度疑い始めると、何でもないことまで信じられず恐ろしく思える」という意味で、ネガティブな文脈で使われることが多いのですが、「何でもかんでも鵜呑みにしない」ということは、実は「知性を賦活する」ために欠かせない大切な態度なのではないかと思います。

昨年ノーベル賞を受賞された本庶佑さんがインタビューで述べていた「教科書に書いてあることを信じない」も同じようなコンテクストで語られたことでしょう。

私が大学時代に所属していた東洋史学研究室でも、「史料や先行研究(論文)を覆っているバイアスを一枚一枚剥ぎ取る」 ことを学生に叩き込んでいました。特に中央アジア史ゼミは、そのスタンスが他のゼミに抜きん出て徹底されていた記憶があります。

何せ、主な研究対象である遊牧騎馬民について知るための文字史料として、量的に他の史料を圧倒しているのは「漢文」史料です。そして、その漢文史料の「書き手」の多くは、遊牧騎馬民を「北狄」だの「西戎」だの「辺境の野蛮人」として扱う中華思想を前提とした「中国人=漢人」(※人種的な意味ではなく、自身を中華文明に帰属する漢人であると認識している人)ですから、彼ら=漢人が描写する遊牧騎馬民像を、何の疑いも差し挟まずに受け入れることは、研究の初歩の初歩からの「つまずき」を意味していました。

漢文史料は、その現存する「量」も、「読解の容易さ」(現存量が多いから読解も容易になるわけですが…)も、他の史料(テュルク語・ウイグル語・モンゴル語満洲語・チベット語等の遊牧騎馬民が用いていた言語の文字史料のほか、遺跡や遺物といった考古学史料等)を圧倒しているーーそれが故に後世の「世界史教科書」でも、「中華的視点」から捉えた中央アジア(内陸アジア)史しか描かれないことが常態化していきます。ある意味で「死人に口無し」状態なのです。

「ある一つの言説」が力を得て「定説」へと格上げされる時の要件は二通りあると考えられます。

①その言説が「真である」科学的な根拠が裏付けられる=誰がトレースしても必ず同じ結論に至ること

②その言説の「真偽にかかわらず」、その言説が様々なメディア(口伝・紙媒体・電子媒体等)を通じて、大量に拡散される、あるいは非常に長期間にわたって伝承(継承)されること

さらに②のパターンで「定説」への格上げが起こる場合、その言説が「単純で分かりやすいこと」も追加要件になるのかもしれません。

複雑とまではいかないまでも、理解に一定以上の「理路」を必要とする=受け手側に一定以上のリテラシーが求められる言説だと、単純で分かりやすい言説に比べて、その拡散力や被継承力?が一定の制約を受けると考えられるからです。

ここで重要だと思うのは、①のパターンで「定説」が成立する「決め手」となるものが自然界の法則であったり、歴史上の事実であったり、基本的に「人為的な改変が不可能なもの」であるのに対して、②のパターンでは、まさしく「人為」が決定打になり得るという点です。

以前、「【正しさ】はデザインされる」というようなことを考えていたのですが、ここで言うパターン②の「定説」は「デザインされた【正しさ】」の一種と言えるのかもしれません。

【疑心暗鬼】
:一度疑い始めると、何でもないことまで信じられず恐ろしく思えること

しかし、その「何でもないこと」というのは本当に「何でもない」「ごく当たり前の」ことなのか?ひょっとしたらそれは、人為的に「何でもない」と皆が思うように仕向けられた=デザインされた「当たり前」なのではないか?それって、このまま意識の前面から「スルー」させちゃっていいのか?

この「?」からしか人間の知性は駆動し始めないということを、改めて噛み締めたくなるご時世です。