備忘録61(2018.07.21)

「コミュ力」とやらが高い人には、山本太郎議員は「コミュ障」として映るんだろうか。

「怒りや憎しみ、対立からは何も生まれないよ。もっと冷静に、建設的に議論すればいいのに」と、すけこました顔で冷笑を浴びせる人が、「コミュ力に長けている人」として評価されるのだろうか。ふーん。

「コミュ力重視」=「円滑で、淀みのない」コミュニケーションに「価値がある」とされるのは、やっぱりそこに経済合理性の物差しが使われているからでしょう。「意思疎通や合意形成に費やされるコストや時間は少なければ少ないほど良い」という了見で。

でも、それを突き詰めていくと=コミュニケーションに費やすコストを「最小化」しようとすると、最終的に行き着くのは「意思疎通も合意形成も不要」ということになってしまうのでは?だって、経済合理性に則れば、「コミュニケーション自体」が「コスト」なんだから。

プログラミングみたいに?ボタンを一つ押すという「1回の動作」で全てが滞りなく動くほうがいいわけでしょ?コミュニケーションのように、双方向性や相互性がある行為っていうのは、「やり取り」の「やり(遣り)」と「取り」で、少なくとも「2回以上の動作」を必要としているわけだから、これは「無駄」として換算される。

なので、いわゆる「コミュ力」というのは、実は「コミュニケーションを否定する」ことによって成り立っている能力・価値基準なんだろうと思うのですが…。すげぇ矛盾してません?

逆に経済合理性を抜きにすれば、「円滑で淀みのないコミュニケーション」になんか、むしろ価値がなくなってしまうのかもしれませんね。

「円滑でないコミュニケーション」の過程には、「対立」があり、「怒りや憎しみ」のような感情の衝突があり、あるいは「ためらい」や「言い淀み」があり、時には「沈黙」もある。これ、何のためかというと、その場において「一番ベターな結論を導くため」でしょう?求められているのは、(既に決まっている)正解に辿り着く「最短距離」ではなくて、そもそも「正解は何なのか」「一旦出したその正解とやらは本当に妥当なのか」でしょう。

そこでは正解に辿り着く「速さ」なんかは何の意味も持たない。なんぼ最速でゴールに到達しようと、そのゴールが「間違っていた」ことによって取り返しのつかない損害を被ってしまっては元も子もない。「集団として、自分達にとって少しでもマシな共通ゴールを設定すること」にこそコミュニケーションの価値があると考えれば、自ずと「円滑さ」の重要性は相対化されると思います。

この意味において、山本太郎議員は決して「コミュ障」などではなく、対立や感情の衝突も「よりベターな結論」を導くために必要なコミュニケーションのプロセスとして、きちんと手順を踏んでいるのだと思います。むしろ、山本議員から「投げられた球」をキャッチするでもなく、打ち返すでもなく、「ただ避ける」ことしかしなかった石井国交大臣のほうが、よほど丁寧なコミュニケーション能力に欠ける「コミュ障」なのではないでしょうか。

ちなみに、財界が主導する「就活戦線」で「コミュ力=コミュニケーションをコストとして捉える価値観」が重視されていることと、安倍政権が経済合理性のロジックで「手続きが煩雑な」民主政体を破壊していることとは、とても親和性が高い気がします。仲良しこよしやもんね、彼等。

 

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