備忘録102(2020.02.19)

来年度のスタッフ研修計画を思案中。特定事業所加算や処遇改善加算の要件を満たしつつ、書類上だけじゃなくて実際のスタッフ育成にも「実のある」仕組みをつくるべく、悶絶しながら格闘すること足かけ10年…。

自分が直接指導・育成に当たるんやったら、パワハラ紛いのスパルタ方式確定なんですが、さすがにパワハラ紛いの「仕組み」をつくるわけにはいかず…何でこんなことをペーペーにやらせんねんという毎度お馴染みの不満はさておき、ほんまにずーーっと苦悩し続けております。

その一方で、学生インターンシップをはじめ、最近では某メガバンクのエリア総合職新入社員研修や某社協新人職員研修受け入れなど、「外部」の人たち向けの研修プログラムを企画・実施する仕事も並行して取り組んでおります。そして、そっちの研修生の皆さんに毎度お伝えしている内容のほうが、むしろ、身内のスタッフにこそ伝えたい/考えてみてほしいことだったりするなぁ…と薄々感づき始めた今日この頃です。

NPOは行政や企業と何が違うのか
▽寄附型NPOと公費型NPOと企業型NPO
NPOにとって「制度化(財源の公費化)」は諸刃の剣
▽福祉の「ネオリベ化」
▽○○福祉は「○○のための福祉」でいいんですか?「○○を通じた福祉」ではダメですか?
▽「存在のcost化」にどう抗うか、そして「存在のresource化」への道程~福祉ほどラディカルな仕事はない
▽重症心身障害者と呼ばれる人たち~「生まれて来なければよかった」とは言わせない(他人にも/自身にも)
▽個別化力と普遍化力~営業マンと企画・広報マン~掛け持ちしないと「回りません」
▽SpecialistかGeneralistか

こういうお話を「外部」の人たちにはしていますが、この内容は幸い?上司の検閲wを受けないので、多分にアクビイズムを含んでおり、これをそのままスタッフ研修に持ち込むのは如何なものかと思いつつ、でも、こういう内容こそ、スタッフ同士でワイワイ語らえたらオモロいやろうなぁ…と妄想。

取り敢えず、誰かうちの若い衆よ、アクビのおじさんとこういうことを語り合わないかい??
…と、言いつつ、いろいろ言い訳をつくっては何だかんだ付き合いの悪いアクビさんなのでした。ごめーん。

備忘録101(2020.02.01)

今日の終業後は、スタッフ向けの内部講座(強制参加じゃないよ!)。利用者の家族をゲストスピーカーとしてお招きする「聞かせてください、親の思い」シリーズ。多分10年近くぶりの企画。

今回は、8年前に亡くなった利用者さんのご家族がゲスト。利用者ご本人が亡くなった後も、家族ぐるみでずーっと私たちとお付き合いを続けてくださっていて、いろんな形で応援していただいている、貴重でありがたい方々なのです。

懐かしい写真の数々もスライドで登場して、古株スタッフの面々は思わず微笑んだり涙ぐんだり…。温かな雰囲気に包まれた講座でした。でも、若い衆たちはどんな気持ちで話を聞いてたのかなぁ。置いてけぼりになってなかったらいいけど…。

お話を聞きながらぼんやりと感じていたこと。
当の亡くなった利用者さん(Sさん)は、亡くなる3年前に重篤な肺炎で入院。その時に気管切開と胃瘻造設の手術を受けて、人工呼吸器まで使うことになる。

つまり、それまで元気に出すことができていた「声」を失い、それまで口から食べることができていた「ご飯」を失うことになったわけです。息を吸って吐くことすら、機械に助けてもらうことに。

でもその手術と機械のおかげで身体も元気になり、退院して、再びうちのデイに通うことができるようになりました。その後も亡くなるまでの間に2度重篤な状態になって入院されますが、「その都度」奇跡とも呼べるような復活を遂げて、家族や私たちのところに舞い戻って来られました。

そういう過程を、入院中の支援や自宅支援、デイの現場でつぶさに目にしてきた私にとって、この「不屈のカムバック劇」はかなりの衝撃でした。

考えてもみてください。最初の入院で、声も口から食べる食事も、息を当たり前のように吸って吐く力も失ってしまうんですよ。一気に。果たして、もし私がSさんだっとしたら…多分その時点で完全に人生を諦めてしまう気がします。「もう無理」って。生きてんのが嫌になるんちゃうかって思うんですね。

でも彼は違った。声を失おうが、口からご飯が食べられなくなろうが、呼吸器の世話になろうが、決して「生き抜くこと」を諦めなかった。諦めなかったというより、多分Sさんの中では「あー、早く家帰りたいなー、デイでみんなに会いたいなー」ぐらいの感覚だったのかもしれません。でも、普通、そんなんで乗り切れます?気管切開と胃瘻と呼吸器ですよ?これはもう、いわゆる「健常者」と呼ばれている人種には恐らく体現不可能な「タフさ」なんやと思います。その「タフさ」に励まされた古株スタッフも少なくないでしょう。

「健常者では持ち得ない力」をSさんは備えていた。その力の源は何だったのか、直接Sさんに聞けたらいいんですが、多分家族との深い絆だったり、うちのデイという「場」が持つ魅力だったりしたのかもしれません。

そうやって、ご本人、ご家族、私たちスタッフ、お互いがお互いに「力」を与え合っていた「相互依存」的な関係性。この輪をもっと地域や社会に広げていくこともまた、Sさんが私たちに残したデッかい宿題なんやろうなぁ…

天国から見ててね、Sさん…と心の中で呟きながら家路につくのでした。

備忘録100(2020.01.15)

藪からスティックに、妹から2枚の写真がLINEで送られてきた。若かりし頃の母方の祖父。

これ、我が家的にはかなりの衝撃。母方の祖父(ケイジさん)は、母が小学校高学年の頃に亡くなっている。もう60年近く前のこと。なので、私は当然ケイジさんに会ったことがない。

おまけに、母の実家は母が10代後半ぐらいの頃に火事で一度焼失しており、その時にケイジさんの写真も全て燃えてしまったということで、私はケイジさんの顔を写真ですら見たことがなかったのです。

ところが、母の実家に今も暮らす伯母夫妻が年末大掃除をしていたら…なんとこの2枚の写真が突如「出土」したらしい。これには母も母の兄弟たちもビックリ!遺影も含めててっきり全て灰に帰したと思っていた「父の顔」を、半世紀以上ぶりに目にしたのだから、その驚きというか、感激たるや如何ほどのものだったろう。

私は私で、そろそろアラフォーに片足を突っ込もうかという年になって、生まれて初めて祖父の顔を目にした衝撃と感動は一入なんだけれども、それよりも何よりも、この写真を見たときの第一声は「おいおい!似すぎやろっ!」であった。的確なツッコミであった。

ケイジさんは、私含め、叔父や従兄弟たちなど、母方の男連中のほとんど全員とクリソツ過ぎるのである。面長で、エラが張ってて、彫りが深めで…「あー、おれのDNAは間違いなくこの人のを引き継いどるんやな」というのが丸分かりなご尊顔なのである。

そんなケイジさん、写真からも分かるように、元々は海軍の職業軍人でした。海軍経理学校を卒業して主計将校として仕事してたんだとか…。ほんで、母方の祖母(エイコさん)は、海軍工廠の役員か何かの家庭に生まれた娘さんで、エイコさんのお家に下宿しながら鎮守府とかで働いていたケイジさんがエイコさんと結ばれて…みたいな「ファミリーヒストリー」らしい。

親戚を辿ればどっかで必ず海軍さんに行き当たる…というのはやはり「佐世保人あるある」なんでしょうか?

今年の年末大掃除では、エイコさんの若い頃の写真が「出土」してくれたら嬉しいなぁ。エイコさんも私が2歳ぐらいの時に亡くなっちゃってて顔を全然覚えてないし、写真もあんまり見たことがないんです。

みゆき伯母ちゃん、よろしくお願いします(笑)

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備忘録99(2020.01.06)

10年以上苦楽を共にしてきた相棒が、ついにここまで「カッコ悪く」なってしまった。さすがにこれは酷いっしょ…。

メンソールじゃないほうのパッケージなんか、往時は新幹線のカラーリング(青と白)のモチーフにまでなったほどのスタイリッシュさを誇っていたというのに(NHKチコちゃんに叱られる」調べ)…。

なんぼ喫煙人口を減らすためとは言え、この無粋な注意書はなんとかならんもんかね?煙草に限らず、今世間はこれに似た「過度な注意書」で溢れている。宅配トラックの「私は法定速度を守って運転します。お先にどうぞ」ステッカーとか、「車の下に潜り込まないでネ」ステッカーとか、テレビ番組に出てくる「※個人の感想です」スーパーとか「※諸説あります」スーパーとか…

「んなこたぁ、言われんでも分かっとるわい!」な注意書のオンパレードのせいで、いろんなモノのデザインが持つカッコよさや風情なんかがたちどころに消し飛んでしまう。

「んなこたぁ、言われんでも分かっとるわい!」なことでも書いて(明示して)おかないと、コンプラがどうじゃの、訴訟起こされたら勝てんだの…

別にそういう過度な注意書を「書いている」側に腹を立てたり、失望しているわけではありません。逆です。お気の毒に…ぐらいに同情さえ覚えます。反対に、過度なまでの注意書がなければ「コンプラ違反だ!」と騒ぐ連中や、訴訟を起こすような連中にこそ、腹が立つし、失望しています。

「んなこたぁ、言われんでも分かっとるわい!」なことは、文字通り、わざわざ明示しなくても「織り込み済み」なわけです。

煙草が身体に悪いことは「誰でも」知ってるし、乗用車が法定速度を守らないといけないことも、子どもが車の下に潜り込んで遊んだら危ないことも、通販番組でインタビュー受けてる人の感想があくまで個人的なものであることも、テレビで言っていることに諸説あることも…「みんな」分かってるんです。「一定程度のリテラシーを備えている人なら」という条件付きで。

つまり、ここで「コンプラ違反だ!」と騒ぎ立て、自分の落ち度で損害を被ったくせに「この損害はちゃんと注意書があれば防げたはずだ!」と訴訟を起こす連中は、この「織り込み済み」であるところの常識を物事から読み取ることのできるリテラシーが「欠如」していることを、自ら吹聴しているのと同じだと思いませんか?「私は非常識なおバカさんです!」って大声で宣言しているようなもの。

そして、そういう連中の「声」によって、世間にここまで「んなこたぁ、言われんでも分かっとるわい!」が溢れるようになってしまったということは、その「声」に「一理あり」とする社会通念が既に出来上がってしまっていることを意味します。でもそれって…「日本社会はリテラシーと常識の欠如したおバカ社会です」宣言に等しい気がするのですが…。

煙草のパッケージ一つを眺めているだけでも、世知辛く、無粋な世の中になっちまったもんだ…はぁー…と、深い溜め息をつかずにはおれない、そんな2020年がスタートしたのでした。
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備忘録98(2019.12.28)

田中さんのNPO(ソーシャルセクター)批評?にはいつも「うーむ…なるほど…」と唸ったり、「そうだそうだっ」と心の中で共感の声を上げたりしている。

今回の記事を読んだ率直な感想は、「スマート感」や「オサレ感」を漂わせている一部の「成功者的(に振る舞う)NPO」に対する自分の違和感や嫌悪感が、単なるルサンチマン?恨み節?ではなかったのかもな、と安堵したというか、何ならそういう自分の感覚を後押ししてもらった?ような心地がした…というもの。

別にNPOが「スマートであること」や「オサレであること」が悪い/気に入らないというのではない。「スマート感」や「オサレ感」の「感=表層」しか見えてこない(というか、見せない)、実際の「現場の泥臭さ」が全く匂ってこない(というか、匂わせない)というスタンスに対する違和感というか、胡散臭さのお話。

いや、それだけじゃないな…。何というか…今の日本のネオリベ的潮流(何でもかんでも企業・市場型ロジックで処理しようとするとか、「小さな政府」指向とか、自己責任型社会指向とか…)に乗っかって、ヒトやカネを集めることに成功した組織独特の「マウント感」に辟易しているという方がピッタリくるかも。

実際にそういうNPOの取り組みで救われた、助かったという「当事者」の方も相当数はいらっしゃるわけで、別にそういうNPOを全否定するつもりは全然ないですし、記事にあるような「リア充(勝ち組)」的代表者に率いられたNPOには「本当の当事者支援はできない」=「当事者にしか当事者は救えない」と言うつもりもありません。

でもね…ちょっと言葉にするのは憚られますけど敢えて言うなら、自身の「リア充(勝ち組)」的価値観や感性に無自覚なまま「当事者」と向き合うことって、ともすると「当事者を利用して自分(たち)の『市場価値』を高めている」ように見えなくもないですよと…。

自分自身も組織の採用活動の一部やら、インターンシップ受け入れやらを担当しながら、「虚偽ではないにせよ特に意味も中身も無い単に『(就活)市場ウケ』しそうなアプローチ」の片棒を担がされているような実感がある。

人材は必要ですし、カネも必要ですよ。でもね、「何かズレてません?」という感覚がどうしても拭えない。こんなどうしようもない違和感を抱えた状態なので、「今一番やりたくない仕事は?」と問われたら、間違いなく「ファンドレイジング」と答えることでしょう…なんつって。

https://news.yahoo.co.jp/byline/tanakatoshihide/20191225-00156316/

備忘録97(2019.12.19)

「なぜ民事で争わねばならなかったのか」=「なぜ刑事事件にならなかったのか」が追及されない限り、本当の被害者救済や社会秩序の維持は程遠く…。

「判決では『酩酊状態にあって意識のない原告に対し、合意のないまま本件行為に及んだ事実、意識を回復して性行為を拒絶したあとも体を押さえつけて性行為を継続しようとした事実を認めることができる』として、山口さんの不法行為が認定された。」

これ、判決文ですよ?これ、「民事」の判決文ですよ?これ、明らかに「刑事(犯罪)」でしょ?あり得ない…。

山口氏(言わずと知れた“アベ友”)の「犯罪行為」が何故「無かったことにされた」のか。伊藤さんからの告発を受理しながら逮捕状の執行を差し止めた警察、不起訴処分を下した検察、不起訴相当の結論を出した検察審査会…何のためにあなた方は存在しているのでしょうか?


https://m.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_5df8ec48e4b047e888a4d46e?ncid=other_facebook_eucluwzme5k&utm_campaign=share_facebook

備忘録96(2019.12.18)

今日は相談支援従事者の初任者研修。例によって集団指導(←これ、業界用語だよね)よろしくただの「踏み絵集会」で苦痛でしかなかったんですが、最後の講義1コマだけが異様に聴き応えがありました。

障害者虐待防止の講義でしたが、事業所スタッフによる虐待の背景の一つとして、「アイデンティティを確認できる対象が利用者しかいない」という職場環境が挙げられていました。

「自分が価値ある存在であること」を確認できる相手が「利用者しかいない」--最初は利用者に対する働きかけで本人から感謝されたり、本人が笑顔になってくれることが「やりがい」だったけれども、それが徐々に感謝や笑顔の「強要」→「支配的(管理的)な関わり方」へと移行していき、虐待につながっていくという…

仕事での自己肯定感を感得できる機会が「利用者との関わり」に限定されることを防ぐためには、先輩や上司も含めた「同僚」からの励ましであったり、称賛であったり、時には情理を尽くした叱責・指導であったりといったコミュニケーションが機能する「職員コミュニティ」の存在が重要なファクターになってくると…。

いつぞや私も愚痴ってしまいました。そう、職場での承認欲求をどう充足させるか問題…これもモロに絡んでくるなぁ…と。やべ、おれ、虐待加害者予備軍じゃんと、講義を聴きながら一人ビビっておりました。

それと、いわゆる「バーンアウトシンドローム」って、バーンアウト=燃え尽き=「完全燃焼」をイメージしてるんでしょうけど、こと福祉の業界で多いのは「不完全燃焼症候群」なんだとか…

利用者のケアや支援に当たって、「もっとこうしたらいいのに」「自分のやっていることは間違ったケア/支援じゃないのかな?大丈夫かな?」…などなど、モヤモヤを抱えている時に、「自分の裁量が分からない」し、「誰も評価してくれない」し、仮に声を上げても「何も変わらない」し…そこに由来する「諦め」が元になって、「辞める」か「今の職場の在り方に自分を染める」かの二者択一を迫られて疲弊していく…

労働負荷が大き過ぎて「燃え尽きる」んじゃなくて、労働負荷の「かかり方が曖昧」過ぎて、「全力を尽くそうにも尽くせない(燃え尽きようにも燃え切れない)」しんどさ…

これも「職員コミュニティ」の存在と、そこを基点とした組織の「自浄作用」がきちんと稼働すれば解決・改善できるかもしれないのに…

そんな内容の講義だったもんだから、夕方の眠気も吹っ飛んで、ギョギョっと身につまされたのでした。