備忘録52(2018.06.21)

マスコミがいう「政治的に中立」は、「いじめ」の現場でいうところの「傍観者」と同じ立場のことだと思いますが、それは「中立」ではないでしょう。

「傍観者」は「いじめる側」と「いじめられる側」のどちらにも「関与しない」というまさにそのことによって、「いじめる側に加担している」ことになるからです。

「いじめ」の現場における「政治的に中立」な振る舞いというのは、「いじめる側」を非難するなり、先生にチクるなり、「いじめられる側」を助けるなりして、その現場に「公正さを取り戻そうとする」振る舞いのことでしょう。

「そんなことしたら、今度は自分がいじめられるじゃないか!」と言われれば、それはその通りなのかもしれません。でも、それぐらいやらないと「私は中立です」と言ってはいけないんです。

「中立を守る」というのはそれぐらいのリスクを背負って初めて成立するものだと思います。でも、自分個人が一時的に背負うリスクと、「自分が身を置くフィールド=社会の公正さが修復不可能なほどに破綻してしまう」リスクと、どちらがより大きな被害をもたらすか…。

「言うは易く…」なのかもしれませんが、本来の意味で「中立」に振る舞う勇気を持ちたいと思います。