備忘録33(2018.01.06)

「上から目線の人」も、「謙虚を通り越して卑屈な人」も、人間としての経験なり知見なり能力なりの在り方を錯覚しているのではないかともやもや。

「上から目線の人」は自身を「A」と看做して、自分は相手=「B」の経験なり知見なり能力なりは全てカバーしており、その上で相手が持っていない経験なり知見なり能力なりをも保持していると錯覚。

「謙虚を通り越して卑屈な人」は逆に自身を「B」と看做して、相手=Aに対して必要以上の劣等感を抱いてしまっている。

でも、実際の人間関係は「C」と「D」じゃないかと…。自分の経験なり知見なり能力なりがスッポリ相手のそれを包摂しているとか、逆に相手のそれにマルっと包摂されているとかっていうのは、実はリアリティに欠けている気がするのです。

自分にとっての「未知の領域」が相手には備わっているという前提に立って関係作りをしていったほうが、お互いが生き残る上で心強い。当たり前なのかもしれませんが、再確認。

つまり、CとDの斜線部分は「余人をもって代え難い」経験や知見や能力なわけで、そのバリエーションが豊富であればあるほど、その人間集団はあらゆる課題や危機に対処できる確率を高めることができるということではないでしょうか?

相手が赤ん坊や幼児だろうが、障害者や認知症高齢者だろうが、AとBではなく、CとDに基づいて関わる。そうして「余人をもって代え難い」経験・知見・能力の多様さを可能な限り最大化していく。

「社会的弱者」という名の下に人間自体を「コスト」視するのではなく、全ての社会構成員を「人的リソース」として認識する。人間社会の生き残り戦略は、そこから出発したほうが賢いような気がしませんか?

 

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