備忘録32(2017.12.25)

まともな暮らし、まともな社会、まともな政治、まともな人…こないだは「正しさ」が放つ胡散臭さについて考えていたんですが、そしたら「まともさ」についても考えてみなあかんなぁ…と。「正しさ」とどう違うんでしょう?

「まとも」は「真面」と書きます。「真つ面(まつも)」から転じたとされていますが、この「つ」は大昔の格助詞で、今で言うと「の」に当たる。

つまり「真の面」=「ほんまのオモテ」=「真正面」というのが本来の「まとも」の意味なんですね。そこから転じて「(真正面で向き合っても恥ずかしくないぐらい)道理にかなっていて非難される点のないこと/きちんとしていて、いかがわしい点のないこと」という意味でも使われるようになりました。

あれ?後者は「正しい」と大してニュアンス変わらんやないか…でもまぁ、言葉は生き物(というかナマモノ?)とも言いますし、必ずしも「今の辞書的な正しさ」に縛られなくてもいいでしょう。なので、一旦ゼロベースで考え直してみます。

まず思うのは、そもそも「真正面から向き合うことのできる関係」って、「正しさ」が依拠している「タテ関係」じゃあり得なくね?ということ。これはアジア的な?感覚なのかもしれませんが、「タテ関係」において、「下」の者は基本的に「上」の者と「面と向かってはいけない」ことになっていたからです。

アジアと一口に言っても、もちろん地域や時代によって多少の差違はあるでしょうが、例えば皇帝(天皇)や王に拝謁する時、臣下は基本的に御前で跪き、頭を下げて額を床に着けなければなりません(拝跪叩頭)。そして許可が出るまで頭や上体を起こすことは禁じられており、たとえその許可が出ても、皇帝や王の姿を直視することは不遜に当たるとされます。まして「ご尊顔」をガン見するなどもってのほかです。何せ、皇帝や王は「天とか神とかの代理人(あるいは化身、あるいはそのもの)」ですから、嘘でも最大限の畏敬の念を表さないと殺されかねません。

イメージのしやすさで言うと、平安貴族が外出する際の先払いや、江戸時代の大名行列も似たようなものでしょう。「下々の者」は単に道を開けるだけではなく、平伏=土下座して一行が通り過ぎるのを待たなくてはいけない。貴族や大名といった「やんごとなき」身分の方を「見る」ことすら許されないのが普通だったわけです。

こういうアジア的な?貴賤感覚には「穢れ」思想やなんかも絡んできそうなので、短絡的なことはあんまり言うたらいけんのですが、とにかく触れることはおろか、「相手を見ることも許されない」ような「タテ関係」では、「真正面で向き合う」なんて不可能だと思うんですね。だもんで、「真正面で向き合う関係」を前提として成り立つ「まともさ」というのは、対等に向き合うことができる「ヨコ関係」ならではの概念?なのではないかという気がしています。

そして、「正しさ」が社会の「タテ関係」に基づいてデザインされるものであるのに対して、「まともさ」はそういう意図的な設計ができないようになっていると思うのです。

「正しいかどうか」を判定するための基準は「(予めどこかで設定・設計=デザインされた)あるべき姿」ですが、「まともかどうか」の基準になるのは「(今ここで)真正面から向き合っている相手と自分自身」だけです。「ヨコ関係」においては、「あるべき姿」を設定してくれる「上」の存在(権力者や権威者、天や神…)が不在ということになっているから。

もう少し単純化すると(していいのかな…)、「まともかどうか」を判断する時、そこには「第三者」が介在できないんですね、基本的に。「私」と「あなた」しかいない。

すると、ここでようやく「まともである」とはどういうことかが見えてくる気がします。別に「道理にかなっていなくても」「きちんとしていなくても」いいんです。だって「道理にかなっている」とか「きちんとしている」とかは「正しい」と同じで、予め設定された「道理にかなった姿/きちんとした姿」がなければ判定できないから。

そういう「初期設定がない」ことが「まともであること」の条件?なわけですから、「きちんとしているかどうか」なんてのは問われないでしょうと…。では、「あるべき姿」のような初期設定抜きで相手(人や物事)と向き合う時、まず何をするか/しようとするか。「コミュニケート」するしかなくないですか?というか、その場で試みることができるのは、もはやコミュニケーションぐらいしかありません。多分。

仮に後から自分の経験則や知見の中にある「あるべき姿」レパートリーのどれかを相手に当てはめてみて、その後の付き合い方や対応を決めるにしても、まずは相手に関する情報入手が必須です。第三者を介さずに相手の情報を入手するその方法は、直接的なコミュニケーション以外にないでしょう。

というわけで、「まともであること」というのは、「(真正面から1対1で向き合って)コミュニケートできること」を指すと考えてみてはいかがでしょうか?そのほうが、より実態を反映した語義になると思うのですが。

そうすると、例えば「まともな暮らし」は「その人の社会生活に必要な一通りのコミュニケーションが担保されている暮らし」と考えることができます。人間関係づくりはおろか、衣食住の入手(購入・貸借・譲渡)、教育・医療の享受など、基本的な社会生活が他者とのコミュニケーション無しに営むことができないのは当然です。いわゆる障害を抱えている人の場合だと、食べる・着替える・排泄する・移動する…といった日常生活の基本動作でさえ、「介助(ケア)」と呼ばれる他者との
コミュニケーション無しには成立しません。

そして、その必要最低限のコミュニケーションが担保されていない暮らしを送る人は世の中にごまんといるでしょう。日本も例外ではありません。生活保護なり、福祉サービスなり、日本のセーフティネットと呼ばれるシステムは「申告制」が原則になっています。つまり、最低限の社会生活を維持するための公的サービスにアクセスし、その窓口とコミュニケートできるのは、それに関する「情報そのもの」や「情報を持っている人」に「運良く巡り会えた人」だけに限られることになります。

公的サービスの「量や質」もさることながら、そもそも「アクセスに必要なコミュニケーションが担保されていない」という意味においても、「まともな暮らし」ができていない人は日本にもたくさんいます。

そうすると、「まともな社会」は「まともな暮らしを保障できる社会」という見方もできますが、違った観点からも考えてみると、「社会を維持・存続させるに当たって、構成員である個人間、集団間、個人-集団間、あるいは他の社会とのコミュニケーションが機能している社会」というのもありかなぁと思います。例えば、課題解決の方法として、対話や議論といった「相互コミュニケーション」を優先的に採用すると同時に、一方通行の「上意下達」や問答無用の武力・暴力行使といった「コミュニケーション拒絶」の手法は極力控える=最終手段としてしか採用しないことができる社会なんかはこれに当てはまるでしょう。

このようにして、「まともな政治」や「まともな人」なんかについても「面と向かってのコミュニケーション」という軸で捉えてみるのはいかがでしょうか。

投げ掛けられた質問に対して、答えになっていない回答しかしない、日本語が通じない政治家を最近よくメディアを通じて見かけますが、まさしくコミュニケートできない/する気がないという意味で「まともな政治家」というか「まともな人たち」ではありませんね。

私が普段関わっている「重症心身障害者」と呼ばれる利用者さんたちのほとんどは、言葉での意思疎通こそ困難ですが、こちらからの意思伝達に対して、表情なり、目力なり、筋肉の緊張や呼吸の深浅、脈拍、体温、呼吸器のアラーム…といった「非言語のチャネル」を駆使して、出来得る限りの「レスポンス」をしてくれます。私にしてみれば、彼ら/彼女らのほうがよっぽど「まともな人たち」なのです。